犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ポニョと漱石

 
宮崎駿監督がポニョを作っている間、夏目漱石をずっと読んでいたというし、「崖の上の」というタイトルや主人公の名前は夏目漱石の小説『門』からとられているという。
 
しかし、どこにどう夏目漱石がポニョに織り込むまれているのか、そこを指摘している人があまりいないように思う。『ジブリの森とポニョの海』を購入しなかった理由も、実はインタビュアーが漱石について一瞬触れるのだが、宮崎駿は「まあ、それは冗談みたいなもので」とはぐらかして、それっきり話が終わってしまうからだ。もっと突っ込むべきところがあるだろうにと思うのだが……。
本当に、ただ単に瀬戸内に滞在していた時に読んでいただけで、タイトルや名前に冗談半分で使っただけなのか、あるいはけっこう内容に反映されているのか、漱石をあまり読んだことがないのでわからない。
 
まともに読んだのは『夢十夜』と『草枕』くらいで、小学生の頃に『坊っちゃん』を読みかけて挫折してしまった。読書感想文やら書評では「坊っちゃんが痛快で」みたいに書いてあるのをよく見かけるが、なんだかとてもそういう爽快感あふれる小説には思えなかった。どちらかといえば、窓から飛び降りたり、あてつけのようにナイフで腕を切ったり、今で言うメンヘラーの構ってちゃんのような感じだ。
 
『こころ』は高校時代の教科書に部分的に載っていたから、あらすじだけは知っている。しかも高校時代の同級生が精神疾患で強制入院させられ、その彼と久々に会ったとき、文庫本の『こころ』を持っていた。なんだか高校を卒業しても過去にしばられ、前に進めずそういった思い出に浸り続けている彼が気持ち悪いような哀れなような、複雑な気分だった。
 
むしろ太宰治川端康成三島由紀夫なんかに潜む狂気というのは非常に具体的で、時間が経てば笑い飛ばせるイニシエーションのような健全さがある。しかし、夏目漱石には不気味さを感じていた。どこがどうおかしいのか、説明しにくい。だから国民的文豪扱いなのかも知れない。
 
せっかくなので読もうかとも思うのだが、いや、そこまでポニョに入れあげることもなかろうという気もする。誰か漱石に詳しい方がいたら教えていただきたい。ポニョと漱石はどれくらいリンクしているのか、あるいはあまり関係ないのかを。

そういえば高橋源一郎夏目漱石の『こころ』について面白いことを語っていたのを思い出した。10代の頃、文学セミナーや講演会の類に行きまくっていた。以下は、その頃の備忘録だ。
 
 

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◎対談「作家は現在をどう捉えているか」
●2000年2月26日(土)午後2時〜4時
●会場/調布市文化会館たづくり12階大会議場
●講師/島田雅彦氏・高橋源一郎

 
司会進行役の紳士が壇上の二人に「中堅作家としてこれからの若い世代の作家に警鐘を鳴らしたいことは?」と質問するが、<中堅>と言われたのがきにいらなかったか苦笑しながら高橋源一郎が「警鐘は鳴らしたくない、本は売れるといいと思います」と嘯いていた。
 
島田雅彦は中世のザビエル、高橋源一郎は明治期の夏目漱石に関する小説を書き始め、なぜ中堅と呼ばれるようになると作家は<歴史小説>を書き始めるのかという話題から、高橋源一郎が自分が明治時代を選んだ理由と、「今とリンクしている部分が多く、今我々が言っているようなことを明治42,3年にはもうすでに言っていて、しかも何も解決していない」という現代と明治の対比、そして明治を代表する作家としての夏目漱石に話が及んだ。
 
以下、高橋源一郎の論旨を要約。
 
漱石というのは千円札にも印刷されて国民的作家として認識されている。しかし、本当にそんなに読まれているのか? たしかに教科書にも載っているし、文庫も2000万部刷られている。刷られてはいるが、人々は本当はどこまで読んでいるのだろうか? 漱石ってどんな作家かと問われると難しい。評論に書くようなことは確かに書ける、しかし自分の小説に登場させられるほど漱石を読んでいるのかと言われたら、そこまでは説明できない。読んだ気になっているだけだったのではないのか。それで今回、連載小説を書きながら漱石を読み直している。
 
漱石二葉亭四迷から発足した近代小説から現代小説まで、考え得る限りの作風を試し、たったひとりで一通りすべてのジャンルを書き尽くした。風刺をやり、恋愛小説をやり、心理小説を明治時代すでにたった一人でやってしまったのだ。
しかし漱石の物語にはたったひとつのパターンしかない。<昔、三角関係の罪深い恋に落ち友を裏切り、現在はその女と夫婦関係にある。そして子どもはいない。そして過去の傷に怯えながら生きている>という話を延々と書いている。こう何度も書かれるからにはモデルがいるに違いないと考えるのが普通だろう。しかし諸説あるものの確たるモデルはまったく解明されていない。普通森鴎外にしろ島崎藤村にしろ、モデルは特定されているし、小説の題材としては一回しか使っていない。それなのに漱石は同じ話を5回も6回も繰り返し使っている。これはどうみてもモデルがいなるとしか考えられない。なのに見つからないのはとても不思議だ。
漱石はもともと明晰で文章に関してもわかりやすい、それにも関わらず謎を多く残した作家でもあった。
 
中でも、最もおかしな点の多い『こころ』を取り上げてみる。そもそもあの小説はおかしい。なぜ小説の重要な部分の半分以上が遺書なのか? 普通、そんなバカ長い遺書を書く人間はいない。さらにその遺書をなぜどこのどいつともわからない学生の身分である主人公になんかたくすのか?
 
物語のキーポイントとなるKという登場人物がいる。
先生がかつて三角関係の果てに裏切って自殺させてしまった友人である。Kは頭文字からして乃木将軍や大逆事件に挫折した公徳秋水ではないかという説もある。しかし、高橋源一郎石川啄木なのではないかと推理する。ちなみにこれは彼のオリジナル(c)である。
 
明治43年に書かれた石川啄木の評論「時代閉塞の状況」を調べてみると不審な点がいくつかある。この評論は未発表で、没後に発見されたものである。
その文中に「当欄で書かれたなんとかに対する回答」という箇所がある。そこで<当欄>というのが何を指すのか調べてみると朝日新聞の文芸欄であるらしいことが判明する。年代からするとこれは大逆事件の前後に書かれたもののようだが、当時朝日新聞の社員だった啄木が、どういう経緯で書いたものなのかははっきりしない。誰が彼にこの評論を依頼したのか? まずはそれを考察してみる。当時の文芸欄の責任者は夏目漱石だった。ここに石川啄木夏目漱石の接点がある。状況からして依頼したのは漱石だろう。原稿を書いたのは4月くらいと思われる。ところがその年の8、9月に漱石が体調を崩し、その後啄木が結核に倒れ未発表のままうやむやになってしまったようだ。これは漱石が依頼し、その直後に大逆事件が発覚してしまったため、内容を読んだ漱石が止めたのだろう。この批評はとても過激で読みようによっては国家に立ち向かえというメッセージにもなっている。大逆事件直後の状況で漱石はそんなものを新聞に載せられないと判断し内々に処理した。そのため資料が何も残されていないのかも知れない。さらにその明治43年の6月の辺りのことを調べてみた。啄木と漱石の日記を読み比べると同時に中断している空白の部分がある。それが明治43年の5月から8月。つまり、この間なにがあったかはわからない。
 
<ここで「朝日新聞に原稿頼まれたのに載らなかったのは高橋さんと一緒ですね」と島田雅彦の解説が入る。高橋源一郎は連載小説の依頼が来て50回分のストックを書いた。しかし新聞社側の規制を通らず、ボツになってしまったらしい。>
 
状況証拠はそろった。
しかし、啄木は頭文字がKではないじゃないかという問題が出てくる。一方、もしかするとKというのは頭文字を意味しないという可能性もある。そこであらゆるミステリーのヒントはすでに冒頭に散りばめられているというセオリーにのっとって読み返してみる。すると次のような箇所が浮かび上がる。
 

 私《わたくし》はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚《はば》かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執《と》っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字《かしらもじ》などはとても使う気にならない。

 
主人公は先生を頭文字では呼ばないと書いている。なのに、後半の先生の遺書の部分にはやたらと頭文字が登場する。なぜか執拗なまでに<頭文字>にこだわっている。これは<頭文字に気を付けろ>というヒントではないのか? そして小説の中からKの特徴を調べてみる。ちゃんと小説の中には描き込まれている。しかし、研究書の類からはこのKという人物像に関する考察が全く欠落している。これは研究者達がKのプロフィールはまったくの創作に違いないと勝手に決めつけていたからだろう。
 

「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供《こども》の時からの仲好《なかよし》でした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗《しんしゅう》の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変|本願寺派《ほんがんじは》の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは他《ほか》のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃《としごろ》になったとすると、檀家《だんか》のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの懐《ふところ》から出るのではありません。そんな訳で真宗寺《しんしゅうでら》は大抵|有福《ゆうふく》でした。
 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏《まと》まったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の家《うち》へ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。私は教場《きょうじょう》で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。

 
ここから導き出される二つの要素を抜き出してみる。
 
<実家が寺である> 
<学生時代に急に姓が変わっている>
 
それではKという人物は実家が寺で学生時代に姓の変わった人物なのではないかと、単純に考えてみる。漱石の非常に近いところにいた人物の中から捜す。まず学生時代に姓の変わった人物がひとりしかいない。それがずばり、啄木である。しかも母方の旧姓は<工藤>、頭文字がKになる。その姓を変えざるを得なかった理由というのも実は父方の実家が僧侶で籍を入れることができなかったからである。さらに啄木は中学の時に母方から父方の姓に籍を移している。
 
もうひとつ『こころ』には最大の謎がある。
ある漱石の読書会で学生が「どうしてもわからないところがある」とやってきた。言われてみて教授も読んでみた。今まで読み流していたが、確かに言われれば意味がわからない。高橋源一郎も読んでみた。やはり意味がわからない。
普通に読めば気づかないような些細な箇所ではあるが、小説には伏線となる重要なフレーズというものがあって、それが後々のエピソードにつながりをもっていく。なのにそのフレーズに対応するエピソードは登場しないまま、未解決に物語は集結してしまう。
この問題の箇所はわりと有名な部分で、先生と最初に会ったときの場面である。
 

私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時|暗《あん》に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟《ちんぎん》したあとで、「どうも君の顔には見覚《みおぼ》えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。

 
以前にどこかで会ったことがあるのではないかと訊ねるが、先生は妙な顔をして会ったことありませんという。普通に考えるなら小説の場合、ふたりはどこかで会っているはずである。あるいは先生が誰かの親戚であったりという伏線になっているはずである。とても意味深な場面になっている。なのに読んでみると最後まで何も明かされずに終わってしまう。
これはなぜか? これは文学史を探してみてもわからない。しかもこの問題についておかしいのではないかと語っているのは研究家の中では一人しかいない。松本ヒロシさんである。
松本さんによれば、この冒頭は作品を構築する上で非常に意味があり、対応する箇所は作品全体なのではないかと言っている。「<私>は<貴方>を知っています」と言っているのに、相手は「<私>は<貴方>を知りません」と言う状況、考えられるのはひとつ。<私>と<貴方>が同じなのではないかという、少々SF的な解釈になる。すると、先生からみる<私>というのは若い頃の自分自身であり、『こころ』という小説は若い頃の自分に対して語りかけている心理小説だということになる。つまり先生が追い込まれていくのは、<私>に過去の自分を見てしまっているからではないのか。だからこの作品はモデルやモチーフが誰なのかと言えばすべて自分自身に還元されてしまう。そうなるとKのモデルも漱石自身ということになってしまう。漱石の本名も金之助だ。そうするとタイトルの意味も少し理解できる。
 
その解釈に対して島田雅彦が言う。「そこまで不可思議な作品を書いていながら、なぜ国民に愛されているのか? なぜ教科書に載っていて道徳的な解釈がなされているのか? 千円札に肖像画を刷られてすっかり国民作家と思われているのかも知れないが、読めば読むほどそれとは対極にいる非国民作家なのかも知れない……」