或る犬の死
犬が死んだ。
病院で余命3日を宣告された帰り道、カートの中でぐったりとしていた。
家に帰ってきて、玄関に入り「凛太郎」と名を呼んだとき、ふと見上げて目があった気がした。
次の瞬間、動かなくなった。
妻はまだお腹が動いていると言いはったが、ガスでも溜まっていたのだろう。
舌はだらしなく垂れ下がり、抱き上げても首がだらんと落ちてしまっていた。
死の直前、凛太郎の心臓は伸びきったゴムのような状態となり、さらには心タンポナーデというまわりに水が溜まってしまう病気だった。
ふつうなら水を抜けば回復するらしいのだが、その溜まった水を調べると濃密度の血液で、抜けば血圧が下がり事態は悪化するという。
血圧が下がると脳に血液が届かなくなり、持病のてんかんの発作が起こってしまうかも知れず、さらに肺炎まで併発していた。
獣医から薬は無理に飲ませず、家で好きなように最期を過ごさせるのが本人のためでしょうと言われた。
そし余命3日を宣告されて帰ってすぐに凛太郎は息を引き取った。
あまりに突然で、あっけにとられるほどだった。
病院で処置を受け、呼吸は少し楽になったようで、ぐったりはしていたが苦しそうではなかった。
それこそ、朦朧とした意識の中で家族の顔をひと目見て、少し眠ろうとしたらうっかり死んでしまったような…。
いくつもの病気を抱え、この先の看病のことを考えると気が重くなるばかりだったが、飼い主のそんな心配をよそに、本人は安らかに逝ってしまった。
親孝行といえば親孝行な犬でもあり、その死に際の美しさはちょっとうらやましくもあった。
いつも眠っていたクッションに移す時、妻が「あ、いま凛太郎がおならした」とうれしそうに笑った。
そして死後硬直がはじまる前にと、ずっとしばらく目に手をあて閉じさせた。
犬が死んでも、なんとなく自分は泣かないような気がしていた。
しかし、なにげなく思い出してはふと涙ぐんでいる自分がいた。
遺体に対して、まったく不快感はなかった。
もしも腐らず永久に保存できるなら、いっしょに暮していたいとすら思った。
古代、ミイラを製造した人たちも同じような気持ちだったに違いない。
眠った姿のまま、剥製にするのも悪くないと思った。
ペットの供養をおこなっている寺院で焼いてもらう時、火葬場のおじさんが、遺骨を丁寧に箸でとりわけ、「ここがしっぽ、ここが爪… 焼けずにこんなにたくさん残してくれて、とっても丈夫でいい骨をしていたんですね」などと説明をしてくれた。
その骨を箸で骨壺に収める作業は、なんだか焼き魚定食でも食べるために骨をとってるような、滑稽な気分になった。
冷静に考えれば考えるほど滑稽なのに、なぜだか不思議と涙があふれて止まらなかった。
遺骨は花にかこまれ、窓辺の祭壇に祀られた。
生前使っていたエサ用の食器に水を入れて供えた。
犬の食器はなぜかヌメヌメしていて、どんなに洗っても「ぬめり」がとれない。
それが悩みだった。
きっとこの「ぬめり」洗い流すことのできる洗剤やスポンジを発明したら、さぞかし儲かるに違いないと思っていた。
しかし今は食器を洗うたび、在りし日の姿を思い出し、いつかその「ぬめり」もキレイさっぱり洗い流されてしまう日がくるのかと思うと一抹の寂しさを感じた。