犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

草稿について

 

ワーキングプア死亡宣告 (晋遊舎ブラック新書 13)

ワーキングプア死亡宣告 (晋遊舎ブラック新書 13)

11月22日に発売する『ワーキングプア死亡宣告』という新書は、昨年末から書き始めて今年の初頭にはすでに他の出版社から発売されるはずでした。ほぼ原稿は書き上げられた段階で発売が延期になり、結局は企画そのものがボツになってしまいました。今回、しばらくそのままだったものを晋遊舎が救ってくれました。
 
ますます時代の流れは速くなり、出版はその速度に追いつくのが困難になっています。今回の『ワーキングプア死亡宣告』もまた、そんな時代の速度に翻弄されています。たった数ヶ月遅れただけで、時代はガラリと変化して、すべての内容が風化してしまいました。出版社が変わったことで、本全体のテーマも変更されました。前回は「ワーキングプア問題の入門書」という要望でしたが、今回は「ワーキングプア問題に対する世代的・個人的な眼差し」といった感じです。
 
そこで今回、自分の書いたパートについては改めて書き直しました。もともとの草稿はワーキングプアという局地的な問題だけではなく、政治や経済全体がどうワーキングプア問題に関わっているのか、なるべくわかりやすく解説したものでしたが、書き直した際は編集者さんの要望もあり、ロスジェネ世代のフリーター視点から見た個人的な感情の揺れ動きを優先させました。ややエモーショナルに偏見的に、論理の破綻や間違いを恐れずに書いた部分があるので、おそらくインテリ諸氏の批判に耐えるような内容ではありません。でもまあ、それなりに読みやすく楽しめる内容になっているので、むしろ低学歴・低収入の方々にケータイ小説的な消費の仕方をしてもらえればと思います。
 
今回発売される新書の内容とはまったく違った、今年の初頭に発売するはずだった原稿の草稿を、参考までにアップします。『ワーキングプア死亡宣告』のサブテキストというほど大げさなものではなく、現在の日本の状況からしたら時代遅れの内容ばかりだし、金融に関する知識や解釈も、今の自分から見たらお粗末なところがあります。自分の意見として180度変わってしまった部分もあります。それでも、結論部分はそれほど変わっていません。
僕は基本的に資本主義が大好きです。でも、知性とモラルを欠いた資本主義は単なる拝金主義になってしまいます。知性とモラルは政治家や官僚や企業家、資本家には当然求められるべきだけれど、庶民もまたそれを失っているのではないでしょうか? あるいは最初から持ち合わせていないのではないか……
これを書いた時点ではこんな急激に世の中が変化を遂げるとは思っても見ませんでした。間違いなく衰退していくだろうとは予測していましたが、中流や上流にまで被害が出て右往左往するようになるにはまだ2,3年の猶予はあるんじゃないかと思っていたのです。だから、今は無関係だと思ってる正社員や金持ち連中だって油断はできませんよ程度の、遠慮がちな物言いになっています。
 
たかだかほんの1年前に書かれた文章です。でも世の中はそこから大きく変わりました。当時の庶民には政治や経済がどんな風に見えていたか、ちょっとしたタイムスリップ気分が味わえるのではないでしょうか。ここ最近の金融危機で、あらゆる業界が冷静さを失い、過去の主張とはまったく逆方向のベクトルに向かっていたりします。
 
経済は群衆の心理で動くと言います。
だからといって経済アナリストたちが口先だけで好景気だとバブル再来だと煽ってみても、人の気持ちは動きませんでした。無責任な楽観と、ポジティブシンキングはまったく別物だからです。インテリさんたちは人の心を操作しようとして、結局感情を動かすだけのエモーショナルなものを提示できなかったわけです。本当は安心を与えなければならなかったのに、やっていたことはアメリカと同じ。借金をして消費することを美徳としていた。その結果が今の現状です。
 
ワーキングプア死亡宣告』という本は3人の共著なので、三者三様、てんでバラバラな意見が書かれていて内容に一貫性はありません。しかし、あえて結論をひとことで言うなら「自分の人生を他人任せにするな!」ってことでしょうか。「これが正しい生き方だ!」などと提示するのは不可能な世の中なので、クソの役にも立たない精神論を述べるしかないというのが現状です。だから結局、本人が自分の過ちに気づく以外、他人が手を差し伸べる方法なんてないよねという身も蓋もない話になってしまいます。だって政治も経済もあてにはならないんだから。
僕は今必要なのは「自立」ではなく「自律」だと思っています。
たしかに個人の自立は必要だけど、急を要するのはいかに自分を律するかなのではないかと。もはや国家・会社・親にすべてを委ねてはもはや生きていけない時代だからこそ、自立する前段階としての自律が求められるのです。結局、社会や他人を変えるより、自分が変わる方が楽なわけだから、これからも「生きたい」と願うなら自分の認識を変えるしかありませんよと。
あるいは、自分の愚かさや意地汚さを見つめ直すことからはじめるべきなんじゃないかと思うわけです。それが唯一の誰にでも必要とされるリスクヘッジであり、金融工学の失敗もまた、そんな単純な認識の喪失にあったんじゃないかと今なら思えるわけです。