『ワーキングプア死亡宣告』草稿 1/7
■サブタイトル
あなたが貧困におちいる、これだけの理由
■貧困という名のオバケ
「ワーキングプアなんて、本当にいるの?」
こんな言葉をネットの書き込みで見かけたり、日常会話で耳にすることが時々あります。
貧困に対する無関心は、あらゆるところに潜んでいます。
ワーキングプアという言葉が注目され、みんながテレビや雑誌を見ながら大騒ぎするようになりました。しかし、それでも多くの人たちにとって、所詮は他人事なのです。
働いている人間が貧乏なはずがないと思うのは、当然です。
「怠けているだけじゃないのか?」
「死ぬ気で働けば、何とかなるだろう」
誰もが、そう思います。
しかし、そんな風にみんなが当たり前だと思いこんでいる平凡な日常から取り残されて、絶望の淵に立ちつくしている人たちがいます。彼らは、多くの人の目から姿をくらまし、息を潜めて貧しさや寂しさに、じっと耐えているのです。
フルタイムで働いているのに、最低限の生活を維持することすら難しく、病気やケガや失業など、誰にでもあり得るささいな事がきっかけで生活が破綻してしまうことがあります。明日食べる食料にも困り、住む場所すら無い人たちがいます。
働いても働いてもお金が貯まらない日雇い派遣。
ネットカフェに寝泊まりするネットカフェ難民。
安アパートや路上で、そっと息を引き取る老人。
返しきれない借金を理由に自殺する人たち。
普通に暮らしていると、彼らの姿は見えてきません。テレビで報道されても物珍しさばかり注目されて、まるで現実味がありません。そのエピソードが悲惨であればあるほど、自分とは無関係な遠い世界の話か、フィクションのように感じられてしまいます。
一瞬、CMが挿入されただけで意識から遠ざかり、チャンネルを換えた瞬間にアタマから消えてしまうのです。
複数のNPO法人が参加する「反貧困キャンペーン」のシンボルマークはオバケです。確かに貧しさに苦しむ彼らの存在は、まるで目に見えないオバケのようです。間違いなく存在するのに、まったく見えてこない不思議な存在。
しかし、彼らの姿は本当に見えないのでしょうか?
彼らの声は本当に届かないのでしょうか?
それはもしかしたら、我々が現実から目をそむけるために、耳をふさいでいるだけなのかも知れません。
■いくら貧乏でも、死ぬわけじゃない?
日本はまだまだ豊かで平和だと言います。
これまで、「いくら貧乏でも、死ぬわけじゃない」などと笑い話や美談にされてきました。中高年は「ボロは着てても心の錦」などと言って清貧の美学を語ります。
しかし、バブルの崩壊した90年代以降、それまで横ばい状態だった自己破産の件数は毎年増加しています。
年間4万件程度だったものが、今では20万件と言われています。
さらに時期を同じくして、日本の自殺件数は毎年3万人を越えるようになりました。日本の自殺率は先進国でもトップクラスです。
しかも、そのうちの1割は消費者金融に生命保険をかけられ自殺しています。
借金や生活苦、病気を持った家族の介護疲れなどを理由とした一家心中のニュースも、最近ではよく目にするようになりました。これではまるで、家族を持つことが重荷以外の何ものでもありません。結婚して子供を作ろうという意欲もなくなります。
餓死者は毎年100人近く、この11年間で867人が死んでいます。
その遺体は我々の目には届かないところで葬り去られているのです。
■ワーキングプアの定義
今、ワーキングプアという言葉がますます注目を浴びています。
2007年には『流行語大賞』の候補にもノミネートされ、NHKスペシャルで放映された「ワーキングプア 〜働いても働いても豊かになれない」は12・7パーセントという異例の高視聴率を記録して話題になりました。しかし、その実態を正確に把握している人はどれだけいるのでしょうか?
一般的にワーキングプアというのは、「フルタイムで働いても生活保護の水準以下の収入しか得られない人」とされています。ちなみに東京23区の生活保護水準が年間194万6040円なので、年収200万円未満という解釈が一般的です。
2003年に森永卓郎の『年収300万円時代を生き抜く経済学』という本がベストセラーになりましたが、それよりも低い。つまり、働いても働いても暮らしが楽にならない貧困層が、ここ数年で確実に増え続けているのです。
しかしワーキングプアには実際の定義があるわけではありません。
国会では福田総理が「いわゆるワーキングプアについては、その範囲、定義に関してさまざまな議論があり、現在のところ、我が国では確立した概念はないものと承知しております」などと発言しました。
さらに、中高年にはワーキングプアとフリーターの区別もついていないような人たちもいます。もっと酷い場合にはニートや引きこもりと混同して、「甘えている」「怠けている」などの言葉であっさりと切り捨てられることも少なくありません。
ワーキングプアがテレビや書籍などのメディアで取り上げられることが増え、着実に世間での認知度は高まっている一方で、なぜこうも理解されにくいのでしょうか? なぜ社会問題であるにも関わらず、個人の問題として見捨てられてしまうのでしょうか? それは、皮肉にもメディアでの取り上げられ方にあるのかも知れません。
■メディアによる偏向報道の功罪
もともとNHKスペシャル『ワーキングプア』シリーズでは、スポット派遣やネットカフェ難民といった限定された人々ではなく、さまざまな人々を描き出していました。
例を挙げれば、
派遣先をたらいまわしにされたあげくホームレスになった若者。
リストラされて家族を養えなくなってしまったサラリーマン。
イチゴ栽培が赤字で、本業だけでは暮らせない農家。
かつては繁盛していたものの、今では大企業との競争に敗れ、細々とやっていくしかなくなった自営業。
年金はすべて病気の妻の医療費に消え、空き缶拾いで生計を立てる老夫婦など。
まさに、貧困が誰の身に降りかかってもおかしくないという、将来への不安がテーマになっていました。
しかし、いつの間にかスポット派遣やネットカフェ難民ばかりがワーキングプア問題としてテレビや週刊誌に持てはやされるようになってしまいました。
理由はよくわかります。新しい雇用形態である派遣労働や、ネットカフェという今風の舞台が目新しくもあり、面白おかしく演出しやすかったからです。
タイムリーな話題やブームとして取り上げようとする風潮は、視聴者側からすれば一種のエンターテイメントや娯楽と同じで、ヘタをすれば一般視聴者に妙な優越感を与え、「わたしはこの人たちとは違う」という安心感を与えます。
そんな現実と報道のズレが「ワーキングプアなんて甘えているだけ、怠けているだけ」という誤解を生み出す要因になっているのです。

- 作者: 巨椋修,犬山秋彦,山口敏太郎
- 出版社/メーカー: 晋遊舎
- 発売日: 2008/11/22
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 31回
- この商品を含むブログ (13件) を見る