とある棄民世代の死刑執行
過ぎ去ってしまった90年代を誰か一人の犯罪者に仮託して語らねばならないとしたら、例えば貴方なら貴方の時代を誰に委ねるだろうか?
四人の幼女を殺し、6000本のビデオテープを積み上げた城に籠ろうとした彼か。
ジェノサイド用の自家製毒ガスでハルマゲドンを起こそうとしたあの男か。
それとも切断した小学生の首を校門の前に置いた透明な存在としての14歳か。
なるほど彼らは熱く語られ、多くの連中が「我らの時代」を彼らに託した。
秋葉原無差別殺傷事件の犯人・加藤智大の死刑執行のニュースを見て、さまざまな感情が湧きだした。
1997年、酒鬼薔薇聖斗の事件が起きた年に連続射殺魔と呼ばれた永山則夫の死刑が執行。
2008年、加藤智大の事件が起きた年に連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の死刑が執行。
このふたつの事実を列挙しただけでもやはり、今回は安倍元総理に関わる例の事件が関係しているのだろう。
思い起こせば、象徴的な事件が起こるたび「犯人はおまえなんじゃないか」とからかわれるような人生だった。
酒鬼薔薇聖斗、ネオ麦茶、レッサーパンダ男、加藤智大、そして今なら山上徹也。
自分は絶対に人を殺さないという確信は持ちつつも、どこか共感や親近感に似た、けれど同族嫌悪のような謎の感情を抱かざるを得なかった。
鬱屈した日々を過ごした人間特有の、日陰者の連帯感なのかも知れない。
まさに僕たちは就職氷河期、ロスジェネ、失われた30年、バブルを知らない子供たちなどと呼ばれ、夢も希望もない棄民世代の先駆けだった。
だから犯罪の理由を「恵まれない境遇」に求めがちだし、無理解な先行世代への反抗心から彼らへの理解を深めてしまいがちなのかも知れない。
山上徹也ほど酷い境遇ではなかったが宗教2世として育ち、自衛隊に入ったおかげで社会復帰できた自分としては、「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」の赤木智弘に共感し、アーサー・フレックのように『ジョーカー』にはならず生き延びることができた。それは、さまざまな巡りあわせで運が良かっただけなのだという自覚がある。
だからつい週刊誌で山上徹也に関する記事や、Twitterの魚拓まで読みあさってしまったが、加藤智大については、本人の手記というものを読んでいなかったことに気がついた。
酒鬼薔薇聖斗こと元・少年Aの『絶歌』は読んだ。
まったく共感できないものの、やむにやまれぬ衝動に突き動かされて殺人に至る過程や、その後の苦労。反省してるんだかしてないんだかわからないような曖昧な言動など、不謹慎な言い方になってしまうが、読み応えのある一冊だった。
そこで検索してみると2012年に出版された『解』という加藤智大の著書に行き着いた。どうやら他にも何冊か書いているのだが、とりあえず興味本位で読み始めてみた。
「社会との接点」「孤立」「自殺」「掲示板」「自虐ネタ」と、同じ言葉ばかりが繰り返されて、何か期待していたのとだいぶ違う。
そこには犯罪者の異常心理も、棄民世代ならではの悲痛な叫びもない。
意外と友達もいて、出会い系で知り合った女性もいて、メイドカフェや風俗に通っていたりもする。
オタク趣味は他者とのコミュニケーションツールに過ぎず、非正規とはいえ健全に稼いで消費する、今となっては主流となりつつライトなオタク像が浮かび上がる。
ただ「孤立」を恐れて「社会との接点」を保つため異様に気をつかい、行動原理はすべて友人を喜ばせるための「ネタ」収集であったり、買い物をすれば必ず高い物を売りつけられるが、それを「買ってあげた」と強がり、自分にいやがらせをしてくる相手に対しては「心理的に痛みを与えるために」あてつけとして放火や自殺を企てる。ただしそれは、友人との遊ぶ約束などによって延長されたり中止され、実行されることはなかった。事件当日までは…。
さらに加藤はネット掲示板に異常なまでに執着していて、肝心の「秋葉原連続殺傷事件」の要因は掲示板上でのトラブルであったと語られる。
そこに至るまで、母による虐待や、非正規雇用の職を失い、職場での友人を失ったことも伏線として語られるのだが、本人にとっての殺人に至る最大の原因は、掲示板上で暴れまわり、自分の存在を「殺した」という「成りすまし」たちに対する復讐であった。
そして身元の不明な「成りすまし」への復讐として、掲示板で犯罪を予告し、それを実行したあげく、報道で知った彼らに「心理的な痛みを与える」のが目的であったと断言する。
どこまでが現実で、どこからが被害妄想なのかわからないが、職場で制服を隠されて「これは嫌がらせに違いない」と騒ぎを起こしたあげく、あとから発見されたものの「もう職場には戻れない」と無断退社したり、職場を辞めることによって職場での友人を失ってしまったことに傷ついたりもする。
過去にさかのぼって告白する「母からの虐待」もなかなかハードだ。
食事中、食べるのが遅いと叱られて料理を広告チラシのうえにぶちまけられてそれを口の中に無理やりつめこまれるとか、真冬に雪で靴を濡らしてしまったからといってはだしで雪の上に立たされたり、九九を間違えたからといって風呂に沈められたりする。
しかし、これらのエピソードは事件の本質とは無関係で、多少、自分の性格がゆがむ原因にはなったかも知れないと語る。
そのあたり、認知がゆがんでいる。
おそらくふつうの人より理解力が劣っていたり、『ケーキの切れない非行少年たち』に登場するような、なんらかの障害があるのかも知れない。
だから、なんとなくこの本を読む以前に漠然と考えていたような「恵まれない環境と孤独感から犯行に至った」という定型的なストーリーとはちょっとズレているのだ。
いや、家庭も職場も恵まれない環境にはあったし、周囲の無理解にも苦しみ、孤立を恐れるがゆえにダメな方向へ突き進んでいるのだが、社会を変えることで彼のような犯行を食い止められるのかといえば、はなはだ疑問に思えてくる。
少なくとも世代的な問題ではなく、世代を超えたもっと根源的なところから改善し、人間同士が理解しあわないと解決できない部分がある。
ただし、冗長でうすっぺらいと思える彼の著書の中で、ものすごく腑に落ちる一節がある。
自殺や殺人を止めて欲しかったと吐露する部分なのだが、しかし自殺や殺人を「やめろ」と言うなら、それをやらずに済む状態にしてあげることが本当に止めるということであって、言葉だけでは足りないのだという。
私の「止めてほしい」とは(中略)社会との接点がほしい、つまり、誰かのために何かをさせてほしい、その「誰か」になってくれる人がほしいということです。
加藤智大『解』
深い言葉ではないけれど、切実さは伝わってくるし、世の中のたいていの問題はこういった心情とつながっている気がする。
自分に寄せて語るなら、自分にとって社会との接点が「着ぐるみ」であり、今現在「誰かのために何かをさせてもらえてる」のも着ぐるみのおかげということになる。
これもすべて、巡り合わせや偶然のタマモノでしかない。
これは『ゆるキャラ論』と重複するが、もともと最初に作ったスパンキーの「つぶれた片眼」には悪意しか込められていなかった。
僕にとって着ぐるみは、世間に対する一種のいやがらせで、イベントでもないのに着ぐるみが歩いている光景は「日常に対する侵略行為」だった。
自分では勝手に現代アートのようなつもりで着ぐるみを始めたので、街角ですれ違った人たちに「怒っていいのか、笑っていいのか、わからないような宙ぶらりんな感情を喚起する」という謎のコンセプトが設定されていた。
しかし、それこそ「ネタがベタに受け取られてしまった」としか言いようがない。
悪意のつもりではじめたのに、結果的に着ぐるみは純粋に受け入れられてしまう。
困らせるどころか、すれ違った人たちに喜ばれてしまい、のちに「ゆるキャラブーム」が到来して、街角に着ぐるみが立っていることはわりとふつうの光景になってしまった。
キャラがどれだけ世のため人のためになっているのかは疑問の余地もあるが、今となっては自己肯定感を高めるていどには、他人から受け入れられている。
正直、キャラをやることによって「こじらせてる」人はたくさんいるので、無責任に「キャラをやれば救われる」などとは言えないが、少なくとも加藤智大の「誰かのために何かをさせてほしい」という心の叫びは、わりと人類共通の、個人が救われるためのヒントになるだろう。