犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

都井睦雄は元祖・ニコ厨だった

 

津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮文庫)

津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮文庫)

阿部定は好き勝手なことをやって、日本中の話題になった。わしがどうせ肺病で死ぬなら、阿部定に負けんような、どえらいことをやって死にたいもんじゃ」
 
津山三十人殺し」は都井睦雄の強烈な自己顕示欲によって引き起こされたのではないかという筑波昭の推論は、かなり的確だろう。つまり犯罪が「自己実現」や「承認欲求」を満たすための手段になり得るのだということを1981年の時点で指摘しているのだ。
 
しかし、阿部定と自分を対比させて語った睦雄の気持ちの影には、単に犯罪の残酷さや注目度による競争とは別のものがあったのではないかと思う。大雑把にこの事件の要因を列挙すると、
 
結核(将来への絶望)
・祖母の過保護(学力優秀なのに祖母の反対で進学できなかった)
・抑えられない性欲(金・モノ・脅迫によって部落内の女性と密通していたが、冷たくあしらわれた)
・徴兵検査の乙種合格(実質上の不合格。お国のために戦えない)
 
こういった要素に「貧困」も関わってくるが、西日本は東北に比べて飢餓や米騒動の規模は明らかに小さかった。睦雄は借金によって武器を買いそろえたり、病気療養のために薬や滋養のある食べ物を買ってかなりの浪費をしている。
秋葉原連続殺傷事件の加藤智大も非正規雇用とはいえ、普通のフリーター並みかそれ以上の収入があった。しかしそれでも絶望せざるを得なかったのは今現在の収入ではなく、将来の見通しがつかなかったがゆえの絶望だろう。
<衣・食・住>が足りた上での絶望だから、贅沢といえば贅沢なのかもしれない。たしかに今日や明日に餓死するという性急さはないが、しかしそれを「甘え」の一言で切り捨てるには残酷すぎる。
 
睦雄は現代で言えば明らかに統合失調症パラノイア、あるいは社会不安障害と診断されるだろう。それが思春期特有の病理なのか、日常的なストレスの高まりによるものなのかはわからないが、外圧的なストレスが原因であることは間違いないし、もしかしたら祖母の過保護が彼のストレスに対する耐性を奪っていたのかも知れない。
ただ、あえて今回はこの辺りの問題は脇に置いておきたい。
 
電波男』で本田透が睦雄のことを宮沢賢治らと並べて「元祖・非モテ」と認定していたが、昭和初期の時点で生活が保障され、文化レベルの高かった彼らは現代オタクの系譜に連ねて問題ないだろう。以前にも指摘したが、かつてオタクになるには資金力が必要だった。しかし現在では生活コストも下がり、文化的なコンテンツも激安になっている。かつて贅沢品だったゲームなどは、むしろ値段に比べて長時間遊べるというコスト・パフォーマンスの良さから「貧者の娯楽」などと呼ばれている。
 
睦雄は決して裕福ではなかったが先祖の遺した農地を担保にして借金をすることもできたし、幼少の頃から『少年倶楽部』や『少女倶楽部』を定期購読するという文化的な環境としては恵まれていたようだ。
学校の成績も優秀で級長に任命されるほどの頭脳を持っていて、現実の部落の姿とは程遠い絵空事の冒険や恋愛に慣れ親しんでいた彼にとって、現実の部落での生活は満たされないものだったのかも知れない。現代でいえば、三次元の恋愛より二次元を尊重する萌えオタのようなものだろう。
 
ただ、ここでツッコミが入りそうなのは睦雄が部落内の多くの女性と密通していたという事実だろう。決して童貞ではないし、性的にまったく排除されていたわけでもない。ただその関係は、睦雄が望んでいたものとは違ったものだった。贅沢といえば贅沢だが、彼自身は金やモノで釣って女性と関係したり、銃で脅してレイプまがいに性欲が満たしたかったわけではなかったに違いない。若者の性衝動に歯止めが効かないのはよくわかるが、彼のつらさは性欲だけでは満たされないからこその苦悩だったのだろう。
 
睦雄は19歳の時に悪友・内山寿に連れられて娼婦を相手に筆おろしをしている。しかし初めて抱いた女性はセックスを商売にしていたため、性欲は満たせても彼の心までは満たせなかった。そこで阿部定事件が起き、衝撃を受ける。「女子があないに男のもんを欲しがるとは知らんじゃった」と、阿部定の男性器への執着に驚くのだ。
睦雄は男性器によって女性が喜ぶのだという一点に興味を持つ。しかしセックスで女性を喜ばせるには毎日何人もの客をとる淫売ではなく、普通の女性でなければ無理だと内山は教える。
それから部落内の女性たちと密通を重ねるようになるのだが、不幸だったのは現実の女性は少女小説のような恋愛関係を自分と持ってはくれなかったことにあるだろう。彼女たちと関係するには金やモノで釣ったり、脅迫したりしなければならなかった。
 
事件のあと、部落内の性的荒廃、つまり夜這いや不倫が日常的にあったのではないかという点が社会的に議論の的になったが、『夜這いの民俗学』などを読んでも彼の部落が異常であったわけではない。みんなオモテに出さなかっただけなのだ。しかし、そのいびつさもまた睦雄にとって不幸だったのかも知れない。
部落は現代風にいうなら、一種の格差社会だった。裕福な長者が複数の未亡人たちと関係を結んでいたように、現在の恋愛至上主義とはまた別のかたちで恋愛格差は激しかった。心情的な価値観ではなく、利害関係によって男女は結びついていたのだ。そもそも見合い結婚というのも、生活のため、生きていくための「交換」でしかなかった。女性は生活を保障され、男性の家系はそれによって子孫を得る。
 
睦雄が望んだものは、きっと自分が誰かを喜ばせることだったのだろう。下卑た言い方をしてしまえば、自分のペニスで女性を喜ばせたかったのだ。しかし現実には、女性達は睦雄のペニスではなく与えられる金銭や滋養のある食べ物を喜んだ。
 
睦雄は三十人殺しを決行した時、最後に押し入った家で遺書を書くために子供から紙と鉛筆をもらっている。その子供は、睦雄が書いた自作の小説を読み聞かせてくれるのを楽しみにして、彼を慕っていたという。彼の書いていた『雄図海王丸』というのは一種の二次創作で、『少年倶楽部』に連載されていた小説の改作だったらしいが、睦雄にとって理想の関係とはまさにこのような「自分の行動が、結果として人から喜ばれる」という承認を満たされるものだったのだろう。
 
そしてまた、阿部定に魅かれたのも熱烈に自分を求め愛してくれるという女性像であり、ペニスを口に含んでくれたり、殺してペニスを持ち去るほどの愛に「純情」を感じていたのだろう。事実、ファシズムへ突入しようとする時代に世間があれほど阿部定事件に注目したのは、彼女の病的なまでの愛情に対して庶民も共感の念を抱いたからなのかも知れない。睦雄は、阿部定がかつて働いていた娼館の同じ部屋で働いている女性のもとへ行き、金を払うから自分のものをしゃぶってくれと頼んでいる。
まさにフェラチオの本質は「愛情の交換」にある。男性はそこまでしてくれる女性を愛しく思い、女性は男性を気持ちよくさせることで自分が満足する。
即物的なセックスの向こう側に愛情を求めてしまった睦雄は、決して満たされることのない泥沼にハマってしまったのだ。なにしろ彼の周囲でそんなものを望んでセックスしてる者なの皆無だったのだから。
 
碓井真史は『誰でもいいから殺したかった!』の中で、最近頻発する通り魔殺人を例に挙げながら「誰でもいいから殺したかった」というのは本当は「誰でもいいから愛されたかった」という反転した気持ちのあらわれだったのではないかと指摘している。実に鋭い。
この論でいうと加藤智大は、誰でもいいから秋葉原で愛されたかったのだろうし、睦雄は部落内で部落の人たちに愛されたかったのだろう。密通した女性たちや、折り合いのつかなかった周囲の男性たちも含めて、共同体の中に生きたかったのだ。
しかし、うまくいかないのは共同体の中でセックスしようと思えばモノで釣るか脅迫しかない。目的と結果が乖離しているのだ。単純に共同体に貢献したり、人に優しくすることで目的が達成できたのなら「真面目に生きる」努力もできるだろうが、目的を果たすには逆のことをやらねばならず、モノを与えたり脅迫すればするほど共同体からは蔑んで見られてしまう。
 
唐突かも知れないが、睦雄が求めたものが「承認」であったなら、現代に生きていればニコニコ動画で違法動画をアップロードして称賛される「うp主」になっていたかも知れないと思う。
ニコニコ動画という世界は独特で、「承認の交換」があたかも貨幣交換か何かのように行われている。「うp主は」は0円で仕入れた動画を0円でアップすることで、報酬はないが称賛される。「ニコ厨」は0円で動画を鑑賞し、代金を支払うことはないが「うp主」を称賛する。阿部定が男のペニスを求めてやまなかった程の濃密さはないが、金銭を介さない「承認の交換」が、ここにはある。
あるいは、ニコ動にハマって一時は夢中になるかも知れないがそれでも満たされず、やはり2ちゃんねる辺りに殺人予告でも書き込んだのだろうか。
 
津山三十人殺し」という事件は、あらすじをなぞるだけでは吐き気をもよおす猟奇殺人でしかないが、掘り下げてみると嫌悪感だけでは切り捨てられないものがある。高取英が演劇に託した批評は実に的を射ているかも知れない。もしも阿部定のように自分を熱狂的に求めてくれる女性に出会っていれば、あるいは小説によって第三者に認められる存在になっていたなら……
あるいは乙種合格ではなく甲種合格で徴兵され、お国のために戦うことができたなら、彼の承認欲求は満たされたかも知れない。まるで赤木智弘が「希望は戦争」の続編で<「お国の為に」と戦地で戦ったのならば、運悪く死んだとしても、他の兵士たちとともに靖国なり、慰霊所なりに奉られ、英霊として尊敬される。同じ「死」という結果であっても、経済弱者として惨めに死ぬよりも、お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる>と書いたように……
 
睦雄の身勝手な欲望と短絡的さ、そして病的な被害妄想を抜きには語れないが、最近流行の「モンスターなんちゃら」みたく、他人を得体の知れないモンスターと切り捨てて解釈して自分はさも「人間でござい」などと澄まし顔でいたのでは遠ざかってしまう人間の本質みたいなものがあるのではないかと思う。相手をモンスターと見なして得体の知れない敵と認定するのは、被害妄想で周囲の人間を全員敵とみなした睦雄や加藤とさほど変わらないのではないかと思ってしまう。
 
月蝕歌劇団 『<津山三十人殺し>幻視行』http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080824/