犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

本当はあまり怖くないポニョの都市伝説

http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080803
 
※ネタばれ注意
 
せっかくなので、もうひとつ都市伝説風に解釈してみた。
 
みんな誰もが最初に思う、「海水魚を水道水で飼ったら死ぬだろ」というツッコミ。実はこれが物語の伏線だったのだ。あの時点で、まずポニョは死んでいる。しかし5歳児の宗介は自分が小さな命をいたずらに奪ってしまったという事実を受け止めきれず、ポニョはまだ生きていると思いこんでしまう。たしか昔よくトラウマを解説する本に、目の前で親か誰かに飼っていたウサギを殺された少年が、それ以来、心的外傷からウサギだけが見えなくなってしまったというようなエピソードが紹介されていた。目の前にウサギがいても、過去の出来事を思い出さないため、視覚として認識されないのだ。ちょうどそんな感じで、宗介にはポニョが生きていて、しかも自分のことを都合良く「好き」だと言ってくれるような妄想に浸る。
一方ポニョは、いたずらに命を奪われ、怨霊と化す。あれほど執拗に宗介を追い回していたのは、恋しさゆえではなく恨みを晴らすため、自分自身の敵討ちのためだったのだ。しかし妄想に浸っている宗介には、まるで自分の殺した魚が可愛い女の子に姿をして自分に再び会いに来てくれたと思いこむ。そしてポニョは、そんな宗介の勘違いを利用して色仕掛けで迫り、家に上がり込んで一緒に眠り、その生気を吸い取る。
やがて宗介は生気を失い死に絶え、ポニョとともに冥界であるところの海底へと向かう。そこでフジモトとグランマンマーレ、そしてリサが仕掛けた「試練」とはまず、怨霊化したポニョの魂を鎮めること、そして宗介に自分がポニョを殺した犯人なのだと自覚させることだった。ラストで宗介は、自分が奪った小さな命も、自分と同じ5歳児の女の子の命も、同じ重さであることを知る。これでみんながツッコム変なところも納得がいくし、宮崎駿がパンフレットで語る「責任」というのも辻褄があう。え? 合わない? そうですか。
 
実はこの世に存在するテキストの多くは聖書と一緒で、どうにでも理解できる。正しいか間違っているかはともかく、理解しようと思えばどんなアクロバティックな論理だって人を納得させることができてしまう……こともある。だいたい小学校の時「国語に本当の答えなんてありません」と教師はいうのに、なんでテストなんてやるんだろうと思ったものだ。テストはともかく、なぜ模範解答なんてものが存在しうるのか?
まあ、それはともかく前回の僕の「津波で全員死んでる」説というのは「本当は怖いトトロ」や速水健朗さんの『ケータイ小説的。』が利用している論法を拝借したモノに過ぎない。特に『ケータイ小説的。』が凄いのは、確かに地元ヤンキーや郊外、ファスト風土への解釈も素晴らしいけれど、あの本を読んだ後には『恋空』や『赤い糸』に対する視点が180度変わってしまうというところにある。これまで鼻でせせら笑っていたような破綻した物語も、途端に辻褄が合ってしまいサイコ・ホラーへと変貌してしまう。
批評というのは二次創作に過ぎないかも知れないが、せめてその作品に付加価値を与えたり、理解を助けたり、読者に新しい視点を与えるようなものであって欲しいと、僕は個人的に思っている。単なる悪口だったら不買運動と変わらない。そういう意味で、スリリングな一冊だった。
 
まあ、なんというか『崖の上のポニョ』という作品はみなさんおっしゃる通り「理屈は要らない。感じればいい!」というタイプの映画なのは間違いないし、監督もそれを望んでいるだろうし、そういう態度で観るのが100%正しい。
にも関わらず、こういう事をグチャグチャ書いてしまうのは、おせっかいながらあの映画に違和感や退屈や嫌悪感を感じた人たちが大量にいたみたいだからだ。しかもその多くは、「いっちょ語ってやるべ」みたいな態度でわざわざ映画館に行ったようなインテリ層というかオタク系批評家というか、物好きなブロガーほど多い印象を受けた。わざわざ映画館に行っておきながら、「ああ、あんなのくだらないよ」的な態度というか、「自分に理解できないってことは、どうせ最初から意味なんてないんでしょ。絵は面白かったよ、絵は」みたいなのがどうも……。まあ、半分被害妄想なのはわかってますけど、続けます。そもそも世界中の人魚伝説や童話を集め、夏目漱石を読み、ワーグナーを聴いて、そこまでやって何の脈絡もない映像の垂れ流しみたいなものを作るだろうか? まあ、アラン・ソーカルの偽論文みたいな例もあるから、あるかも知れないけど、普通は何か裏があると思うし、それを読み解くのが暇人の楽しみだろうと思う。
だいたい糞面白くもないものをひねくりまわして無理やり楽しむのがみうらじゅん以来、サブカル者の本分だというのに、糞面白くもないどころかかなり面白い上に意味深な『ポニョ』をコストと時間を割いてまで観賞しておいてスルーとはいったい何事か? そういう怒りにも似た個人的な感情がわきおこってくる。
 
まあ、僕の「津波で全員死んでる」説は、最初は冗談だったけど、これをきっかけにアタマの中でグルグル転がしてるとなんか見えてきそうな気がしてきた。実は死んでました、意識不明で脳死状態でしたというのは夢オチと同じくらいに常套手段で、『ドラえもん』の最終回(都市伝説版)とか、最近この路線でよく出来ていたのはスクエア・エニックスの『すばらしきこのせかい』あたりなんだけど、本当にありきたりではあるけれど物語に無駄な深みを与えるテッパン的な手法だったりする。
 
そして「津波で全員死んでる」説をさらに発展させて、さらにありきたりな結論に至ってしまった。なんだか自分的に辻褄があってしまったような納得いってしまったような錯覚を覚えたので、いちおうダメもとで披露しておきます。
結局、このあたりはみんな気づいてるだろうけど津波以降の街は「胎内」であり、海は「羊水」なんですよ。乙木さん(id:otokinoki)が『「聖なる女性賛美」が強すぎて駄目でした』というのも、この辺りのことだろうし。
海の神様といえば、『リトルマーメイド』にも登場するトリトンやあるいはポセイドンを連想するのに、なんで女神なのかといえば、やはり舞台が日本だからで、日本だと「母なる海」というイメージが強い。海神わだつみの娘の豊玉姫とかもいるし。で、グランマンマーレが一婦多夫制のもとに生殖しているのは、明らかに「精子」と「卵子」のメタファー。で、フジモトが作っていた「生命の水」は水素、炭酸ガス、メタン、アンモニアなど原始時代の地球の大気に含まれた物質を溶かし込んだ「生命のスープ」で、リサ手製のスープをポニョが赤ちゃんにあげようとする場面も、微妙にこの「生命のスープ」と絡んでたりする気がしないでもない。この辺たどっていくと、明らかに宮崎駿監督は庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』の呪縛から逃れられてないのかなという気がする。胎内回帰、生命のスープ、子を喰らうほどの巨大な母性、ユングの元型……ちなみに先日お会いした架神恭介さんやその担当編集さんによると、ユングはオカルトらしい。で、『もののけ姫』の時は「生きろ。」で、今回は「生まれてきてよかった」。どちらも「死」のイメージを反転させたものに過ぎない。、「みんな死ねばいいのに」というキャッチコピーだった劇場版エヴァや、95年以降の病んだ世界に対するカウンターという意味合いが、もののけ以降のジブリ作品には常に付与されている(まあ、キャッチコピーはプロデューサーの戦略に過ぎないのかも知れないけど)。
「死」といえば、老人ホームの老女たちを思い出す。みんな車椅子を利用していて足腰が不自由なのに、老人ホームが水没してフジモトがやってきてからはみんな自由に駆け回ることができるようになる。これは明らかに死後の世界を意味しているのだけれど、ここで語られているのは生きている時の苦悩からの解放だ。あのはしゃぎ方は、「死んでみたら、意外と良かったわ」みたいな感じだろう。最後まで頑なに「海底へ行くこと=死」を拒んで「生」に執着していたトキさんですら、海底で自由に飛び回れるようになると童心に返って歓喜する。これは、一見すると極楽浄土のようだけれど、死期の近さを肌身に感じて居るであろう宮崎駿監督*1としては、「死ぬっていうのは、生まれる前に帰るのと同じなんだよ。怖くもないし、むしろめでたいことなんじゃない?」ってことなのかなあと勝手に考えてみる。そうすると、津波によって水没した後の街は、「死後の世界」ではなく「生まれいずる前の世界」ということになる。すると、ポニョのあの不定型さも納得がいく。人間は母の胎内で鳥や魚など進化の過程をたどるという例のアレだ。ポニョは受精卵というか胎児というか、とにかくまだ母のお腹の中にいるべき存在なのに、外の世界へ出てしまったわけだ。そして「生」と「死」という本来、わけへだてられた世界に存在すべきものが互いに巡り会ってしまった。ラブストーリーというより、そういう世界生成以前の混沌とした世界に逆戻りしてしまうという物語なのだ。なんかこう、人間同士の体液と体液がまざりあってグチャグチャになるような、そういう不衛生な物語なのだと思う。
 
あと、製作過程で監督が夏目漱石を読んだということは『夢十夜』も読んでるわけで、多少輪廻的なものを取り入れててもおかしくないかと。輪廻転生を信じてるとか信じてないとかではなく、味付けとして。たとえば都市伝説としてもお馴染みの、母親が我が子を湖に突き落として殺し、数年後また別の子供を連れてその湖に行く。すると子供が「今度は殺さないでね」と母に言う……みたいな話がたしかあったような。
これ、もしかして洪水後に出会う赤ちゃんを連れた夫婦に反映されてたら怖いなあとも思った。そういや、声優さんに監督が指示したのは「大正時代のお母さん」だったらしい。なんで大正なの? ケータイはないまでも、いちおう時代設定は現代でしょう。実はこれから赤ん坊を捨てに行くところなのか、あるいはポニョはかつてあの母親に殺され、せめて今度の赤ちゃんは守ろうとして「命を救うためのスープ」をあげようとするのに、それを母親が横取りしてしまう……。考えてたら、またもや都市伝説モードの妄想が暴走してきた。
まあ、あれは見たまんま解釈すれば、赤ちゃんは鼻水がつまって苦しそうなのにお母さんはまったく気づかない。それにやきもきしたポニョが自分ですすってあげたという、それだけの話で、美しく優しそうなお母さんなのに、全然ダメじゃんという今時のお母さんに対する皮肉めいたものを帯びてるのかなと。そう考えてみれば、怖くない。
 
さて、何はともあれ賛否両論のラスト、あそこで映画が終わるのは監督の親切心なんじゃないかと思う。あそこで終われば、すべて明かされないままに終わる。やはりこの話は、誰がどのタイミングで死に、はたして誰が生き残っているのか? その辺りがこの不可解な物語を読み解くカギになるような気もする。救出されて現世に帰り、その生活シーンをエンドロールに流してしまったら生き残った者と死んだ者が歴然とわかってしまう。とりあえずあそこで終われば、観客はアタマの上に「?」をのっけたまま、不快な思いや悲しみにとらわれずに劇場を後にすることが出来る。
 

たぶん子供と大人で見た印象が180度異なる映画で、「ポニョかわいー」と見ていた五歳児が、大人になって見直して「こんな映画だったのか!」って愕然とするような作品ですよ。「本当はこわいグリム童話」みたいなものです。こういう作品をぬけぬけと作ってしまう宮崎駿さん(68 67歳)には、ただ唖然とさせられるばかりです。

<中略>

いかに『ポニョ』が異常なアニメであるかがおわかりになると思います。なんですかポーニョポニョポニョって。子供は騙せても、俺は騙されませんよ。さんざんあんな展開しといて最後がポーニョポニョポニョって、何考えてるんですか。
 
たけくまメモ : ポニョ2回目
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_51ec.html

 
この辺りの文脈からすると、たけくまさんは物語の真相に気づいてしまってる気がする。でも自分の立場やブログの影響力から、まさかネタばれは出来ないという配慮で寸止めしてるんじゃないかと……。
 
ここまで書いておいて言い訳するのもナンですが、普通に観てつまらなかった人や、見る気のなかった人がこれを読んで「ウホッ」と思っていただければ幸いです。普通に面白かったという方は、おつかれさまでした。「わーい、面白かった〜」とか「泣けた」という人向けに書いてません。ちなみにこれは僕の妄言です。根拠は無いので気にしないでください。
 
あと余談だけど、ポニョがちょっと評価されにくいのは色彩のせいもあると思う。もうちょっと彩度と明度を上げたら、「わーキレイだな〜」で誤魔化される人、絶対増えるもの。まあ、通底するテーマがテーマなので、あの色彩がピッタリなのはわかるんだけど、ぜひDVDには原色バージョンというか、極彩色バージョンをオマケに入れてくれたら嬉しいかな。修正はデジタルでいいから。



◆追記2008.08.06
いろいろ考えてみて、この物語のベースにあるテーマは、自己実現やパフォーマンスの手段にされてしまった「殺人」や、あてつけのような「自殺」に対抗して、「死ぬってただ、生まれる前に帰るってことなんだ!」「死ぬって本当は素晴らしいんだ!」みたいな「死」の尊厳を取り返すってことだったのかも知れない。
だから「生まれてきて良かった、生きるって素晴らしい、死ぬのだって悪くない」と、ネガティブに思われがちな「死」の概念をポジティブにとらえなおそうという試みなんじゃないだろうか。
 
あと、人間ていうのは親だろうが子供だろうが感情的で欲望に素直で、動物的な一面を持っている。それは仕方がないことだから、折り合いをつけていくしかないんだみたいなのもあう。ポニョやリサの人格に反感を持つ非難がめいた意見もあるが、あれは動物的なヤンキーのデフォルメな気がする。最近小さい子と絡むことが多いけど、子供ってけっこうあんなだし、みんながみんなああではないだろうけど、リサのような外面の良さと自分の内面を制御できないアンバランスを抱えた母親は意外と多いと思う。
 
みんなベタに受け取りすぎ。違和感を感じるところを真逆に解釈すると、すべて納得行くんだけどなあ。

・あんな魚いないだろ → 魚じゃない。(僕の説では、本来は母胎の中に居るべき胎児)
・魚を水道水に入れたら死ぬだろ → 実際死んでる。
・あんな津波来たら死ぬだろ → 死んでる。
・子供に親を名前で呼ばせるような過剰に民主主義的な家庭が理想だとは思えない → そう、機能不全家族なんです。
・リサが生理的に受け付けない。母親として失格 → だって情緒不安定なんだもん。

まあ、これは極論に過ぎないけれど、実はみんながツッコミ入れてる変なところ、違和感を感じる部分にはもっと何かあるような気がする。
 
何の根拠も考えも無しに2時間、あれだけの奇妙奇天烈な映像作品を作り上げることができたら、それは逆に辺だろ。狂人にも不可能だと思う。精神疾患を抱えた人は、たいてい自分の内面にあるものだけを何度もリピートしてランダムに関連づけて表出するから、あんな風な作品にはならないと思う。ポニョの物語の外側には、きちんとデータベースがあると思う。部分的に行き当たりばったりで適当なところがあるにしろ。
 
あと、あんなもの作っておいて本当のネタばらしをしたらスポンサーや声をあててる子供たち、その他、関係各所に対して取り繕う術はないと思うので、「よくわからない」「意味なんて無い」ということにしておくのが一番丸く収まるんだと思う。これからも、とって付けたような解説を加えるしかないだろう。
 
っていうか、とりあえず自分はこのぐっちゃぐちゃの世界を、ほんのひとかけらでいいから理解したいというのが正直なところ。意味のないところにも意味を見いだしたくなるのがファン心理というものだから。というか、この世で美しいのは誤解と錯覚であり、恋心というのも誤解と錯覚でできている。誤解と錯覚によって「こんな作品つまんないよ」と断じるより、誤解と錯覚によってとことん惚れ込みたい。
 
 
◆追記2008.08.07
録画しておいた『プロフェッショナル 仕事の流儀 スペシャ宮崎駿のすべて 〜「ポニョ」密着300日〜』という番組を見た。あれをとりあえずの「答え合わせ」とするならば、当然のことながら「全員死亡説」や「できちゃった婚説」は的はずれ。岡田斗司夫の「宮さんはそこまで考えてやってない」というのが普通に正しい。ただ、通底する部分ではわりと予備知識無しでごちゃごちゃ考えた割には肉薄していたのではないかと思う。「AC化したクレヨンしんちゃん説」だって、本当は愛されたかった宮崎駿の母子関係と無関係ではないだろうし。少なくとも、若夫婦と赤ん坊というのは母と自分だったわけで、違和感を感じる部分にはやはり何らかの意図が隠されているわけだ。本当はもっと秘められた思いがあるのではないかと思う。
 
あと、「無条件の愛はファンタジー説」というのも、意外といい線いってた。自分自身は「観客を楽しませなければ自分の存在価値は無い」と言い切っている。他人は条件付きでしか愛してくれないと心得ているにもかかわらず、「半漁人のポニョも好き」という幻想としての「無条件の愛」を描き出している。もっと母親に甘えたかったのに、体の弱い母親に甘えることが出来なかった、抱きつこうとして拒否されたみたいな体験は、リサや不機嫌そうな赤ん坊、トキさんに反映されている気がする。
 
番組内で印象的だったのは、友人の死を確認するための儀式について語った場面だった。
葬式は終わっているのに、彼が死んだという実感が持てない。そこで、彼が死んだ集中治療室にまだ彼が死んだことにも気づかず居るのではないかと考える。部屋の前まで迎えに行き、自分のクルマまで案内してドアを開ける。ふと、ソファが沈むのではないかと思うが、当然そんなことはない。ドアを閉め、クルマを運転しながら彼の家だか墓だかまで送り届けて「ああ、本当に死んでしまったんだ」と納得するという話だった。
葬式といのは「生きてる者の納得」のためにある。たんなる筋肉の弛緩ですら「ああ、安らかな顔して…」と安堵するように、葬式は形骸化した儀式ではなく、納得するための手段であるから、葬式で納得できなければ他の方法を考えるしかない。*2
 
ポニョは『どろろ』や『魍魎戦記マダラ』のような「ヒルコ・エビス神」説というのも思いついたけど、無粋なのでやめておく。

■2008.08.15

■■■■崖の上のポニョが神過ぎた件■■■■
http://tv11.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1218142454/

この人たちと、ポニョを肴に酒が飲みたい…

水没後の世界=向こう側=あの世(死亡説)って考えは
やっぱり、かなり受け入れ難いみたいだから、
みんなが知ってるモチーフであることで、オルフェウス
イザナギイザナミの話を知らなくてもこれまでのファンには
気付かせる効果もあると思う。
あと、レビュー見てたら小さい子が自分の生まれた時のことを
急に話し出した〜っていうのがあって、子供すげーと思った。

あと最近、星野之宣を読んでるけどあーポニョだ宮崎駿だと思う場面が多々ある。
また諸星大二郎を読み返したくなった。
個人的にオカルト全否定派なんだけど、「心霊現象は無いけど、心霊体験はあり得る」という考え方なので、ある意味「そんな気がする」という物語や解釈こそがこの世に精霊を呼び出す根源だと思う。そういう意味で、宮崎駿は精霊を召還するのに成功している。
説得力のある言葉というのはオカルトで、誰かがその言葉を真に受ければ神も心霊も妖怪もこの世に実在してしまう。そういうところがオカルトの怖さであり、どんなに否定しても否定仕切れないところであり、たとえ自分が信じてなくても世間の人々がそれを信じて「行動」してしまう以上、そっちに引っ張られるしかない。

 

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『絶叫☆都市伝説 〜観光スポットの怪談〜』
著: 秘山密彦
発行: 山口敏太郎事務所
価格/315円(税込) 

 
 観光地が自殺スポットになってしまうということは、よくある。ひと昔前ならば華厳の滝阿蘇山の噴火口などが自殺の名所と呼ばれた。さしずめ今は、その役割をアミューズメント施設が引き受けているということだろうか?
 楽しいオーラに包まれた場所は、人々を魅きつける。しかし、そんな楽しげな雰囲気がどうやら人間以外の別のモノまで呼び寄せてしまうようなのだ。
 日常から非日常に変化する旅。日常生活をおくる共同体から離脱する旅は異界めぐり、黄泉路への道筋と考えられたのだ。さぁ、禍々しい扉を開けて禁断の世界へ。
 
 
■パソコンで購入
http://www.papy.co.jp/act/books/1-54269/
 
■携帯電話で購入
http://wma.papy.co.jp/pfb/sc/item/1-54269/
 

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秘山密彦の『絶叫☆都市伝説』が携帯電話の全機種に対応しました。
パソコンでもご覧になれます。
中高生向けの内容となっているので、怖さはやや抑えてあります。
ディ●ニーランドが好き、ホラーが好きという方には楽しんでいただけると思います。
上記サイトには無料サンプルも用意してあります。

 
まぜまぜのべる公開ゲーム:絶叫都市伝説 『オレに取り憑いた少女』
まぜまぜのべる公開ゲーム:絶叫都市伝説 『のぞく人形の怪』

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ワーキングプア死亡宣告』
山口敏太郎・巨椋修・犬山秋彦
晋遊舎・ブラック新書
11/22発売
http://www.shinyusha.co.jp/

*1:後で気づいたけど、鈴木プロデューサー手書きの「母と子」という手記を参照→http://www.ghibli.jp/ponyo/press/about/

*2:つい先日、久々に靖国神社に行ったけれど、あそこだって従来の宗教とはまた切り離されたカタチでの「納得」であり、国家としては遺族を納得させるための言い訳だったに違いない。だから、今では政治的な問題にすり替わっているけれど、みんな合意のもとでアレに変わる「納得」を得るのは難しいだろう。それこそ、遺族がすべて死に絶え、戦争の記憶すら持たない世代に時代が移行するまで。それには数百年単位での「平和」が必要となる。戦争が起きれば、再び靖国的な「納得」はまた必要とされて持ち出されるのだろうから。