犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

一億総犯罪者予備軍

◆十六歳少女が斧で父を惨殺
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20070922/
 
16歳の少女が斧で父親を殺し、それがアニメの影響だとして放映が中止になったことがあった。
その時、ネット上に書き込まれた言葉が「斧女、死ね」だった。
殺人を犯した者を戒める言葉が「死ね」というのは、失笑せざるを得ない。
単なる言葉のあやに過ぎないのだろうけれど、自分が見たかったアニメを見れなかったからという理由で一人の人間の死を願うなんて、やむに止まれぬ事情を背負った犯人よりも、よっぽど短絡的で自己中心的なんじゃないだろうか。
 
今回の秋葉原の事件では、犯行直後の犯人や事件現場の様子を写した写真を携帯電話の赤外線通信で交換するアキバ系が非難されたけれど、正直なところ、人間の本性はそっちだろうと思う。
娯楽の少なかった中世では処刑が一種の見世物でありアミューズメントだった。人々は罪人が殺される様を見たくて人だかりを作ったわけだ。有名人が処刑されると、人々は記念のためハンカチにその血を浸して持ち帰ったともいう。
 
戦争になれば国家ぐるみで殺人を推奨されるし、古くは聖書以前の時代や串刺し侯ヴラド・ツェペシュの時代、そして核兵器まで、人が人を殺す技術の残酷さは常に進化し続けている。
中国の皇帝は裏切りを恐れて、処刑した者の肉を家来たちに食べさせて服従させたというが、これなんか現代の猟奇犯罪など比較にならない残忍さだ。
「一人殺せば殺人者だが、100人殺せば英雄になれる」なんて言葉もある。
 
あるいは柳田国男の『山の人生』にこんな話がある。
両親を失った男の子と女の子を養っている老人がいた。しかし山での仕事が減り、子供たちに食べさせる物もないほどに追いつめられていた。このままでは餓死してしまう。そんなある日、炭焼き小屋でうとうと眠ってしまい、目が覚めると戸口には夕日が差し、その光を浴びながら子供たちは斧を研いでいた。起きあがってみると子供たちは「この斧で俺たち二人を殺してくれ」と言う。その言葉に思わず眩暈のようなものを覚え、老人は子供たちを殺してしまい、牢獄に入れられる。
これなんかはとても悲しい話だけれど、現在進行形で起きている一家心中に通底するものがある。
 
そもそも人間は、ちょっとした気の迷いや、私利私欲のために人間を殺す。
確かに食用の豚や牛を殺すのとはわけが違うが、人間が人間を殺すのは当然で、歴史がそれを証明している。
 
団塊世代のジャーナリストが、若者に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と質問されて唖然としたなんて話があった。
そんな当たり前のことをなぜ今さら説明しなくてはならないのかというのは、傲慢であり怠慢でしかない。いい年したオヤジが禁煙場所で「なんで吸っちゃいけないんだ」と逆ギレするような世の中なのだから、子供がそれを理解できないのはモラルハザードなんかではない。単なる無知だ。
「殺さない」のが当たり前なのではなく、「殺す」方が当たり前なのだ。だからこそ、むしろ「あえて殺さない」のは何故なのか、その理由をきちんと理解させなければならない。
 
だいたい今回、加藤智大を非難する人々の、自分は何の罪もなく身も心も潔白で、犯罪なんて信じられないという顔をした小市民的態度というのがウソ臭い。誰でも罪のひとつやふたつは抱えているだろうし、よこしまな考えだってあるだろう。それを盗み食いしたミートパイのソースをたっぷり口につけながら「食べてないよ」とうそぶく子供のように、素知らぬ顔で他人の罪は徹底的に糾弾する。
人間というのは後ろ暗い部分を覆い隠し、ちょっとした気の迷いでつまづかぬように綱渡りのような人生を歩んでいるんじゃないかと思う。だからこそ、そんな毎日の中で「人を殺さない」という選択は尊いのだ。
殺人レベルの話でなくても、子供は放っておけば森でドングリを拾うかのような感覚で万引きをする。「殺してはいけません」「盗んではいけません」というセリフを当たり前のこととして教育しているうちは、その言葉自体が中身の見えないブラックボックスとなり、オカルト化してしまう。「神様はいるんです」「霊は存在するんです」「それはまぎれもない事実なのです」というような論理なんだか押しつけなんだかわからないスピリチュアルと変わらなくなってしまう。
 
戦犯は敗戦国側だけが罰せられ、戦勝国にお咎めはない。
年間3万人を越えるというこの国の自殺者のうち1割は消費者金融に保険金を掛けられて死んでいるという。これはもはや殺人だ。
東京都23区、大阪市をはじめとした五つの都市を除いて、日本には「監察医制度」が無い。だから変死体が見つかっても、多くの場合は適当な検死で事故や自殺と判断され、多くの殺人事件が見逃されてしまっている可能性がある。つまり、罪は必ず暴かれるというのはウソであり、我々が思っている以上にこの世の中には完全犯罪が多いということだ。
「殺してはいけません」と言いながら、一方で罰せられない数多くの殺人者が存在する。
バカ正直に思い悩めば、こうした矛盾点に疑問を感じる。
多くの人々が「人を殺すなんて……」と絶句する。
しかし人を殺すことが異常なのではなく、あえて人を殺さず平和な社会を築くことが貴重で尊いのだ。
「あいつが異常なだけ」と、異分子を切り捨てるだけでは何の解決にもならない。
 
宗教や倫理を持ち出すからややこしくなるのであって、法治国家では人を殺すと自分が損をするという「損得勘定」を説かなくてはならない。その方法は、決して厳罰化だけじゃない。
自由に殺していい社会というのは、自分が殺される可能性もある社会であり、自分が殺されたくないのなら「互いに殺し合わないというルール」が必要になってくる。
しかしそんな紳士協定は、「オレ、自分が死んでもかまわないよ」という人間には通用しない。
「自分なんか死んだってかまわないんだ」という自暴自棄で自己評価の低い人間、失うモノの何もない人間をいかに減らすかというのが法治国家で治安を守る鍵になる。
ルールを守ることでその恩恵にあずかることのできる人間を増やさなければならない。
 
加藤智大の場合、彼を社会につなぎとめる何かは、恋人や仕事に象徴されていた。実際彼は、それを得ようと七転八倒の苦闘をした末、ついに得られなかった。あるいは失った。
あの姿を見て、思わずハッとした。加藤智大的なものを自分の周囲から排除していたのは自分だったのだと。異分子とは距離を置き、目先のリスクを遠ざけ安心していたけれど、根元的なものは何一つ解決していなかったのだと。
 
毒入り餃子事件が起きてようやく日本人は食の安全に目覚めた。それくらい衝撃的な出来事でも起きない限り、人間は「気づかない」のだ。
目先の安さによって健康を害したり、安い品を買い求めることによって自分自身の生活が不安定になったり、安価な雇用によって国家の基盤が揺らいだり、邪魔者を排除することによって自分の大切な人を失ったりする。
 
某批評家集団の座談会でファスト風土をテーマに取り上げた時、「オタクにとって快適なんだからファスト風土化、大歓迎。下北沢なんか滅びてしまえ」みたいな意見に反論をした。あの時はまた別のくだらない議論で揉めて、こちらの言葉も足りずに思わずカッとなって議論を抜けてしまったけれど、今にして思えばあの時、彼の言葉に感じた違和感というのは、これだったのかという気がしないでもない。

つかの間の快適が、未来を脅かす。
結局、今回の事件からも僕らは何も学習しないまま、また次なる事件や災害に怯え、うろたえるのだろう。
 
ファスト風土批判に対する批判への反論
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20070325/