犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

きぐるみテロリズム

自分は、大量殺戮を企てるかわりに着ぐるみを選んだのだと思う。
 
最初に着ぐるみを作った動機は、一種のテロリズムだった。
安穏と平和な毎日過ごしている人々の日常を襲撃し、掻き乱してやろうという悪意が発端だった。
遊園地でもなく、イベントでもなく、ただ何もない街角や路地裏に突如、奇妙な生物が現れる。目的も定かでなく、ただひたすら怪しいだけの存在……
そんな着ぐるみを作ってやろうと思った。
 
当時の僕はミッキーマウスやキティちゃんやミッフィを、心から憎んでいた。
「可愛さ」とは一方的で暴力的な権力だと思っていた。誰もそれに逆らうことができない。
だからこそ逆にそれを利用して、着ぐるみには「不気味だけど可愛い」という造形的なデザインをほどこした。
街角で出会った人々が、怒っていいのか笑っていいのか判断に困ってしまうような、そんな悪意を盛り込んだのがスパンキーだった。
 
自分は、愚かで良かった。
机上の空論や、観念でしか物事を考えることができなかったからこそ、失敗をした。
作ってみるまで、「着ぐるみは一人では着れない」という当たり前の事実に気づかなかったのだ。孤独なテロリズムを夢見た少年は、まずそこで挫折した。
テロを実行するには仕方なく、他人と関わらざるを得なかった。
それがまた誤算だった。
人間関係もヘタで、社会から疎外感を感じ、どこまでも内向的だった人間のリハビリにはちょうど良かった。
着ぐるみという皮膜が一枚あることで、社会にコミットする勇気が湧いたし、人々の悪意や世間の荒波からは防御してくれる緩衝材の役割も果たしてくれた。
 
着ぐるみをやっていると、辛いことの方が多かった。
精神的にも肉体的にもハードだし、蹴ったり殴られたり警備員に退去命令を出されたり、警察に通報されそうになったりもした。
人間不信を増幅しかねない事件がいくつもあった。
しかし、それでもそういった辛苦を凌駕するほどの「喜び」もあった。
 
いたずらや悪ふざけのつもりで始めた着ぐるみだったが、皮肉なことにそれによって喜んでくれる人々や、好意的に受け取ってくれる人たちも少なからずいた。
変なことをやっているヤツがいるということで、イベントに呼ばれたり、仕事の依頼が舞い込んでくるようにもなった。
 
「ネタがベタになった」とでも言うのか。
こっちは寺山修司の市街劇よろしく、交差点にペニス型のサンドバッグを吊したり、路上に「1メートル四方1時間国家」を建設してアスファルトに白線を引いているつもりだったのに、相手は僕が善意からそういうことをやっているのだと勘違いしてくれた。
そして、そんな誤解も悪くなかった。
 
それまで自分はずっと孤独感や疎外感を抱えたまま陰鬱な日々を過ごしていた。
その憎しみを、どうやって世間にぶつけてやろうかということばかり考えていた。
しかし、他人から良い方に誤解され、受け入れられることによって、それまで自分が後生大切に育んできた敵意や憎しみというのはどこかへ霧散してしまった。
単純に、「相手が喜んでくれると、自分も嬉しい」という当たり前のことに気づいてしまったのだ。
 
他人に受け入れられるということは、実は他人を喜ばせるということだったのだ。
*1
 
相手が喜んでくれると、自分も嬉しい……
そんな、みんなが知っていて当然と思っている「常識」に気づけないということこそ、最大の不幸なのだ。家庭環境が悪かったとか、オレよりアイツの方が恵まれているという嫉妬心だとか、そういう周辺的なことも人の不幸をカタチ作る諸要素ではあるけれど、まずは本人が「気づいていない」ということが、全ての原因だと思う。
愛だの恋だの優しさだの、人と人とのつながりだの、そういった誰もが前提条件として持っているとされているような美辞麗句がよく理解できない人間もいるのだ。
そういった事を知らずに成長し、知るチャンスにすら恵まれないこともあるのだ。
みんなが当たり前のように享受している家庭のぬくもりや、「ただあなたが存在してくれるだけでいい」とでもいうようなJーPOPの歌詞みたいなウソくさい無償の愛とは無縁の生活もあるのだ。
 
ずっと悪意を持って生きてきた。幸福に背を向けて生きてきた。
他人と関わらずに自分一人で生きていけばいいやと思っていたし、むしろ生きていく必然性すら感じなかった。生きていける気もしなかった。あえて不幸になることが、世間への当てつけだった。
そんな価値観が反転したのは、着ぐるみのおかげだった。自己評価の低さを着ぐるみが底上げしてくれたのだ。着ぐるみは自分自身で作り上げたバモイドオキ神のようなものでありながら、酒鬼薔薇くんやその他多くの少年犯罪者たちが心に抱えていた暗黒神と違って外界への扉を開いてくれた。
ただそれは、偶然の産物だとしか思えない。

結局、人はみな無条件に愛され、受け入れてもらえるなんて、幻想どころかウソっぱちで、誰かの役に立つことでしか自分の存在価値を証明できない。今でも、自分が用済みとなり、誰からも省みられることのない存在に逆戻りするんじゃないかと、ビクビクしている。
 

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秋葉原無差別通り魔事件が起きた当日、商店街でも「やっぱり防犯カメラをつけなきゃなあ」という話になった。しかし、たしかに人目を盗んでコソコソとやるような犯罪に対して防犯カメラは有効だと思うけれど、おそらく今回のようなパフォーマンスとしての犯罪への抑止効果はゼロだろう。自分自身、「最後にひと華咲かせてやろう」というような自暴自棄で不安定な時期があった。そういう思考回路に陥ってしまえば、自分の背負った不幸のデカさなど関係ないし、むしろ過去の自分を正当化するために自分の不幸の原因をすべて外部に求めて論理づけてしまう。
 
今回、犯人に対する同情や共感の声が挙がる一方で、やはり感情的な「加藤、許すまじ!」の声も多かった。もちろん被害者への哀悼は誰の心にも芽生えるし、犯罪が許されないのは当然のことだと思う。しかしその一方で毎回思うことだけど、異常な例として犯罪者を世間一般から切り捨てる姿を見ていると「ああ、やっぱりこの人たちとは相容れないなあ」と思ってしまう。
正直、加藤智大容疑者を心底憎めるくらいに常識的で幸福な価値観を最初から持ち合わせていた人々がうらやましくもある。この感覚は、お前よりオレの方が不幸だとか、隣の芝が青く見える類の嫉妬や不幸自慢のようなものに過ぎないのかも知れない。今でも世間に対する負い目や劣等感があるからこそ、犯人に共感したり、犯罪に何かを仮託しているだけなのかも知れない。
 

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ただ前回の繰り返しになるが、近視眼的に世間にコミットできず疎外感を抱いているタイプの人間を切り捨てることが、長期的に見るとリスクに成りかねないのだということは、もうちょっと打算的に考えた方がいいんじゃないかと思う。不幸な人間が増えるほど、自分に被害が及ぶ可能性が高まるのだとしたら、どうだろう。格差やワーキングプアの問題というのは、つまりそういうことだと思う。他人が貧乏になろうと不幸になろうと、自分には関係ないとタカをくくっていたり、これだけ社会情勢が不安定になってもまだ自分だけは逃げ切れると思っている人たちの傲慢というのが事態を悪化させている側面はあるんじゃないかと思う。
 
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20051006

*1:内田樹の言葉に「官能の欲望でさえも他者を欲望する。己の性的欲望を、他者を満たすことによって、他者を経由しなければ官能は獲得できない」というのがある。
自分が気持ちいいわけでもないのに、なぜ人間はフェラチオやクンニをするのか?
性欲を満たすためだけならば射精産業やエロゲーで充分だが、そこに他者は存在しない。辛うじてお金を払えば相手が喜んでくれるかも知れないし、そこに喜びを見いだす人もいるかも知れないけれど、それはまた別の話だ。
逆に言えば、いかに喜んでいるフリをするか、いかに微笑みかけながら「あなたが好きです、あなたじゃないとダメなんです」という錯覚を消費者に植えつけるかという小手先の技術の発達が「萌え」であり、そこに「萌え」の限界がある。