犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

串カツ庶民主義

 

ワーキングプア死亡宣告 (晋遊舎ブラック新書 13)

ワーキングプア死亡宣告 (晋遊舎ブラック新書 13)

ついに発売されました、『ワーキングプア死亡宣告』。
部数はそんなに出てないはずですが、嬉しいことに五反田の「あゆみブックス」では平積みになっていました。
 
集団ストーカー―盗聴発見業者が見た真実 (晋遊舎ブラック新書 001)

集団ストーカー―盗聴発見業者が見た真実 (晋遊舎ブラック新書 001)

amazonだと1500円以上同時購入で送料が無料になるので、こちらの『集団ストーカー』をサブテキストとして一緒に読むと僕の書いたパートがちょっと理解しやすくなるかもしれません。早い話が統合失調症を原因とする集団ストーカー妄想の話なのですが、そのうち僕も詳しく書こうと思います。
 

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今の世の中を支配しているのは一言でいってしまえば「疑心暗鬼」。
自分以外みんな敵というよりは、誰が敵で誰が味方なのかわからないから全員を疑わざるを得ない。
金融崩壊にしたって、どの金融商品サブプライムローンが紛れ込んでいるかわからないから優良な金融商品まで信用を失ってしまう。
汚染米問題も似たようなもので、正しい知識と情報が無いから真面目にやってる企業のまともな商品まで信用を失い、買い控えられてしまう。
 
「信用」といえば串カツほど「信用」を必要とする食べ物もない。
店に行くとソースの缶に必ず「二度漬け禁止」と書かれている。
このルールはなかなか絶妙で、当人の倫理観にすべてがゆだねられている。
べつに店の人が監視しているわけでもないが、自分がルールを破れば他人も破っている可能性がある。
自分のモラルが他人に照射され、他人を疑えばもちろん串カツなどという不衛生な食べ物は到底食えたものではない。
つまり、串カツには、自主的な信頼関係の構築が必要とされるのだ。
ルールを守る真摯さと、他人を信じるおおらかさの両方が要求される。
 
本来、法律というものはそれを守ってさえいれば良いという性質のものではなく、ましてや法律の範囲内ならどんな悪事を働いても処罰されないという類のものでもない。
みんなが「串カツ庶民主義」とでも言うべき思考法を理解した上で維持するべきシステムなのではないかと思う。
 

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結局、知性とモラルを失って悪をのさばらせてしまうと、結果的に善悪の区別なく全員にツケがまわってくるということだ。
判官びいきというか、自分の好きなものをどうしてもひいき目に見てしまう部分はあるけれど、この疑心暗鬼の恐ろしさを的確に表現してなおかつ解決策を提示している作品というのは『ひぐらしのなく頃に』なんじゃないかと思う。
正直、今の事態を解説するにはいろいろなタブーに触れざるを得ないから、主要メディアにおけるノンフィクションでは限界がある。
精神障害や脳の器質的な損傷と、社会そのものの在り方が密接に関わっているからだ。
ひぐらしは、その辺りを「L5」という架空の症状でやんわりと証言している。しかもメタファーを利用しながらその深刻さは劣化していない。
 
はっきりと言ってしまえば、「串カツ庶民主義」などという甘っちょろい思想では乗り越えなられないものが世の中にはある。
たとえば、ひぐらしにおける被害妄想の暴走というのはあきらかに統合失調症的なものだ。
これは発症してしまえばなかなか論理で修正するのは難しい。だからこそ、予防が必要なのだ。
発症後のケアもさることながら、予防こそが必要であるからこそ、ひぐらしという作品の中では何度も時計の針が過去にもどり、同じ出来事が繰り返されるのだ。
僕たちの世界には後悔した後に時計の針を巻き戻す術はない、だからこそ「未来に先んじて後悔する」という想像力が必要なのだ。
 
最近の研究では、ストレスが溜まると前頭葉の機能が低下することがわかったらしい。
ストレス過剰の世の中が、人間から理性を奪うのは間違いないと思う。
おそらく前頭葉の機能が低下すれば人は利己的になり、串カツのソースを二度漬けしてしまうだろう。
いつまでもおいしく串カツが食いたい、そのためにはやはり知性とモラルが必要なのだと思う。
そして、より多くの人が知性とモラルの大切さに気づくことで、ストレスの少ない優しさに満ちた世界に近づけるのではないだろうか。
 
福沢諭吉の『学問のすすめ』にも書いてあるけれど、知識がなければ人は政府や犯罪者にだまされる。逆に容易にはだまされないということで、庶民を騙そうとする偉い奴らや犯罪者から身を守れる。
そしてだまされる人間が少なければすくないほど、犯罪のメリットは減る。自分一人が騙されないということは、自分一人の身を守るのではなく、周囲の人間をも同時に守ることになるのだ。
 

「新たな大衆」が生まれ、彼らがメディアに求めるのは情報よりも「感動」や心をゆさぶる「情動」なのだそうだ。確かに思い当たるふしはある。これによって大ヒットが生まれやすくなり、マーケティング的には有意義なことなのかも知れないけれど、どう考えても愚民化してるってことの証拠にしか思えない。感動のためのサプリメントみたいな作品を否定はしないし、毎日忙しい労働のあいまに小難しい屁理屈ばかりの本を読めとは言わないが、なんとも言えない気分になる。
知的エリートにとっては、馬鹿が多ければ多いほど自分の言いなりになるから扱いやすいんだろうけど、そういった驕りが今の世の中をこんなにしたんじゃないの? 馬鹿を馬鹿として放置することがリスクにつながるということを肝に銘じた方がいい。
 
あと、エコノミストやビジネス本書いてる人たちって庶民には「消費しろ、それが景気回復につながる」って言ってるわりに本人は節約家で、買うのは金融商品くらいみたいなのが多い気がする。どうも馬鹿に金を吐き出させてじぶんはたんまり貯めこんでるイメージしかない。それもどうなのよって思う。