犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ポニョと漱石、その後

 

親子という病 (講談社現代新書)

親子という病 (講談社現代新書)

漱石は死ぬまで「母に愛されなかった」という思いを抱いていたらしい。
なるほど、宮崎駿漱石に幼い頃の自分を照らし合わせていたのか。
これでなぜポニョで漱石にこだわっていたのかが、ちょっとわかった気がする。
さらに言えば、そういった思いを克服できたからこそ、ポニョという作品は完成したのだとも言える。
お人好しに解釈すれば、愛されなかったことを怨みがましく根に持つより、そんな過去は振り払って親の責務を果たせばいいという話か。
まあ、映画でそこまで踏み込めているかといえば、踏み込めてはいないけど、子育てや若いお母さんに向けてのポジティブな眼差しは垣間見える。
宮崎駿自身、子育てに対する後悔や贖罪の気持ちも、ちょっとはあるかも知れない。
だから現役のお母さんや、未来のお母さんたちに期待して、多くを求め過ぎてしまうのだろう。 
 
よく児童虐待は連鎖するというけれど、自分がされてイヤだったことは子どもにしなけりゃいいし、自分がされたかった事、欲しかったものを与えればいい、そういうことが「神経症の時代に〜」云々というあたりの根底に含まれているに違いない。
出自が片親だろうが孤児だろうが、自分が親になる時にはそんなの関係なく、子を愛せばいいのだという、トラウマという迷信を打ち破る建設的なメッセージが感じられる。
自分が愛されなかったから子どもを愛せないなんて、それこそ迷信みたいなもので、愛情というのはもっとシステマチックな技術の問題だから、親や家族以外の場所で身につけることだってできる。
仮に親の愛を受けずに育った人がいたとしても、幼い頃にそれを学べなかったのは不幸だけれど、愛情のスキルは後天的なものだからトラウマがあったら一生台無しみたいな運命論・宿命論とはまったく関係がない。
僕なんかはよく「あんたなんか生まれてこなければお父さんと離婚できたのに」とさんざん言われて夜寝る前に蹴られたが、そんなものかと諦めもついて、別にトラウマにもならず、気楽に家族と距離をおけるようになれた。むしろそのおかげで他人から必要とされなくても生きてゆけるのだと学んだし、必要とされなくても生きていけるが他人から必要とされる人生はもっと豊かなのだと言うことにも後で気づいた。
 
結局、批評家がポニョを評する時って、「ただ映像を楽しめばいい。内容はともかく画面は素晴らしい」という結論に達するけど、評論家がそれを言ったらお終いじゃないかと思う。だって、評論を読む暇あったら一本でも多くアニメや映画見た方がおもしろいじゃんて話だから。評論を求めるような読者は、作品についてもっと深く知りたいのだ。
 
評論家に評論を放棄させる作品としてもポニョは面白いと思う。