犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

セカイ系の正体

 
セカイ系作品が抱えているテーマ性と、統合失調症をはじめとする精神疾患を抱えている人の世界感というのは共通する部分がある。
つまり「何者でも無い自分」に耐えられないのだ。
誰からもかえりみられず、無視されるような透明な存在である自分というのは耐えがたい。自分はもっと尊重され尊敬されたい。なのにそれがかなわない世界に正面から向かい合うことができない。
だから反動として、自分は「社会」や「世界」にとって脅威となり得るくらいに過大な存在であると思いこんでしまう。
 
「自分」というブランドを過大に評価して、ラベルを付けてくれるような存在が欲しい。それがセカイ系作品においては異能力であり、特別なヒロインである。あるいは特別なヒロインから何者でもない自分に対して与えられる承認である。
そして現実世界では通常、家族や恋人がその役割を担う。
しかし病んだ世界ではそれが疾患そのものやクスリの量、あるいは手首の傷などに変換され、あるいは自分は悪意に満ちた巨大な組織に命を狙われているという「物語」であったりもする。
 
僕はある時まで、こうした微妙に誤った世界観は、言語によって説得が可能であると信じていた。しかし、むしろ自分で自分の分不相応な価値を確信する人々の認識は、変更・更新が不可能に近い。病識のない患者を治療することが困難であるように、人の「確信」は動かしがたい重みを持っている。それが第三者から見たら、どんなにチンケで過ちに満ちていようとも。
 
そういった意味で、セカイ系という病は今に始まったものではない。90年代もゼロ年代も関係なく、むしろ根元的な人間の幸・不幸と密接に関わりがあるし、不況によって悪化するものなのかも知れない。つまり、自分は他人と比べて相対的に不幸であると感じる人の量が絶対的に増加すれば、その妄想を共有する人々の数も増えてゆく。
 

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一般的にセカイ系と言われている作品は「君とぼく」の世界を構築することによって病気や自意識をマイルドに隠蔽してなんとか作品性を保っているが、それとは別に病気そのものがアイデンティティと錯覚されてしまっている「原初的なセカイ系」というものが存在するのではないかと、僕は思っている。
たとえば『NHKへようこそ!』や『涼宮ハルヒの憂鬱』、ファウスト系の作家による新伝奇の類は明らかに精神疾患そのものを描いている。もとをたどればその元祖は、大槻ケンヂに到るだろう。そしてさらに、大槻ケンヂに影響を与えた江戸川乱歩横溝正史にもさかのぼれるに違いない。
 
統合失調症を抱えた人々のコミュニティや電子掲示板をのぞいてみると、その病気が悪霊によってもたらされたモノであると解釈する人や、それによって透視やテレパシー能力が発現したと解釈する人、猫としゃべれるようになったと言い出す人たちがいる。病識があってすら、何かそれが「特別なわたし」を象徴する「聖痕(スティグマ)」として機能してしまっている。
 
たとえばマッチョ志向の評論家先生がセカイ系作品をどんなに批判してもその信奉者に届かず、すべての言葉が空虚に闇へと霧散してしまうのは、それが病識のない精神疾患と結びついていたり、作品そのものがそういった人々の精神的なよりどころとなり、理想の世界像を暗示しているからなのだ。彼らは「特別な自分」にある種の「確信」を抱いているから容易に自分と「世界・社会」とのズレを修正しようとはしない。そしてまた、セカイ系作品が彼らの妄想を補強するわけでもなく、むしろ多くの人々が共有している潜在的で動物的でわがままな願望にリンクしているからこそ、思春期の弱った心に心地よく響いてしまう。
 
身も蓋もない結論になってしまうが、セカイ系の正体とは100人に1人が羅患するといわれる統合失調症やそれに類する人格障害的なものなのではないかと思う。そしてまた、オカルトが提示する多くの超常現象も、統合失調症の幻覚・幻聴・妄想の中に9割方含まれてしまう。つまり、オタクやサブカルチャー作品がもつ精神性、空想力は紙一重精神疾患と結びついているのだ。だからそれが悪いという話ではなく、むしろだからこそセラピー効果があるわけだ。だからあらゆる作品は「こころ」にとって毒にもクスリにもなる。そしてあらゆる作家は、その効能に無責任ではいられない、ってことを大塚英志あたりは長年語ってきたのではなかったか。無責任に情緒や感動を駆動すると、細木数子や「水からの伝言」みたいな金儲けにつながってしまうし、真に受けた人は精神を破壊されたり人生を踏み誤ってしまうだろう。
「悲しみ」や「恐怖」といった、割り切れない心をサブカルチャーはさりげなくケアしてきた。僕はそこに民間信仰なども含まれると思っている。むしろサブカルチャーというのは、個人的な「信仰心」に支えられている。おそらく水子供養を発明した祐天上人は「子を失った母の気持ち」をケアするためにそれを方便として使ったのだろうし、古今東西における悪魔祓いや除霊も一種の方便だったに違いない。
元をたどればこうした心のケアは政治的なノウハウだったのではないかと、僕は考えている。むしろこうした人心操作術というのは、もともと権力者が人々を支配下におくためにこそ生み出されたに違いない。卑弥呼は「まつりごと」を行う際に、鬼道と呼ばれる一種のトリックを使っていたのではないかとされている。
 
長い前置きになってしまったが、続きはまた気が向いたら。
 
■参照:
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/omoide01.html