犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ポニョとルナティック

 
昨日、夏目漱石の話を書いていて、ふと古い友人のことを思いだした。
精神病院に強制入院させられた例の彼と会った日に書いた日記があったので、ハードディスクを発掘してみた。
『こころ』だと思っていた文庫本は、『それから』だった。
なるほど、僕は彼と初めて靖国神社に行ったのか……まったく忘れてしまっていたことばかりだ。
さらに驚いたことに、彼との会話の中に宮崎駿が出てきている。
 
確かに、一時代を築いた有名作品はさまざまな人の思いを受け止め、七色に乱反射するだろう。
メジャーであればメジャーであるほど、おかしな人のおかしな感受性に作用する確率も高まるだろう。
 
聖書やノストラダムスの大予言と同じように、夏目漱石宮崎駿の作品もまた、読者の心を反映して奇妙な妄想や解釈を引き寄せるのかも知れない。
共通するのは「有名であること」「わかりやすい言葉で書かれていること」そして「妄想の余地があるほど曖昧であること」だ。これは完全にオカルトの条件と一致するし、都市伝説の成立条件とも一致する。
そして、いとも容易く「納得」できてしまうことこそ、オカルトなのだ。
 
知識が少なければ少ないほど、間違ったことで納得しやすい。
だからといって、豊富な知識を持ち合わせていれば決して間違えることがない、というわけでもない。
知識なんてものは使いようによっていくらでもこじつけできる。
 
夏目漱石宮崎駿は狂人を駆り立てる危険な香りを持っている。
有名で、わかりやすく、深読みしたくなる曖昧さに満ちている。
あぶない、あぶない。あやうく冥府魔道に陥るところだった。
 
ポニョで「納得する」ということは、日記の中に登場する彼と紙一重なのかも知れない。
途端に、バカらしくなった……というより、ゾッとした。
 
まあ、映画料金に関連書籍代をプラスしても充分に楽しませてもらった。
自分的にポニョの夏は終わった。
っていうか、あれだけ書けば我ながら気も済むだろう。
 
みなさん、それではお大事に。
 

「犬山、君にはそんな乱暴なこと、しないから大丈夫だよ……」
 
 数年来のつき合いで、彼がたまに精神病院に入院していることは知っていたが、自分がそれに対して偏見を抱くようなタイプの人間ではないと、本気で信じていた。だが彼と話すとき、どうやら僕は脅えているようなのだ。
 
 彼は時々、目の前をよぼよぼと歩いている老人を自転車で轢き殺してしまいたい衝動にかられたり、自分の悪口を電波で垂れ流すラジヲ局のアナウンサーに対しいくら残酷な手段で殺しても余りあるほど憎しみを抱くことがあるというのだ。
 
 彼の語る支離滅裂で誇大妄想的な数々の話には、うんざりさせられた。しかし敏感な彼の瞳はめざとくそれを感知し、「オレは本当に君とはいい友達でやっていけると思っている。オレが真剣に話しているのに、君はそんないい加減な気持ちでいるのか?」とトロンとした目で僕を見つめる。
 そう言われると弱い。どうすればいいのだろう。寡黙になることだけが、せめてもの誠意を表す手段なのだが、彼はそれすらも許してくれない。
 
 渋谷で待ち合わせをして、熱い日射しの中、ふたりでとぼとぼと歩いていた。どこまで行くのかと訊ねると「靖国神社だ」と応えた。どこにあるのか、場所さえよく知らなかった。
「それって遠いの?」
「そんなことないさ。それに歩きながらの方が、ふたりでゆっくり話せるだろ」
 
 彼の右手には文庫版の夏目漱石「それから」が握られていた。
 それは数年前、最期に会った時と変わっていなかった。彼は高校時代の現文教師を敬愛しており、その教師が愛読していた夏目漱石も同じように敬愛していた。

 
 なだらかな坂道を神宮外苑に向かいながら、彼は少しはにかんだような感じで語りだした。
「君と離ればなれだったこの2年間、色々あったんだよ……君は信じないかもしれないけど」
 彼は2年間ほど浪人生活を経て、ようやく今年、地方の私立大学に入学したのだが、それ以前の予備校で彼は『変な奴』として周囲の注目を集めていたのだという。
 
 彼の名を仮にKとしておこう。
 Kは自分を感受性豊かで思慮深い人間なのだ思いこんでいた。だから悩みすぎて精神を患ってしまったのだと……。
 
 彼は旧日本軍と全共闘時代に並々ならぬ興味をおぼえ、その思想を予備校に集まる若者達にも広めようと資料をコピーし配布して自作の論文をもとに講師陣を論破していたという。そんなKを怪訝に思った周囲の生徒たちは彼がオウム信者なのではないかと噂した。あげく、ある講師はKの素行を母校に問い合わせたという。
 
 Kはその時ほど精神的に追いつめられた事はなかったと語った。
「しかし、負けなかった……オレはいつも水道でおもいきり顔を洗い、背筋を伸ばして席に戻ったんだ。みんな見ていた。オレのに注目してたんだ。だからわざと」
 
 予備校にひとり、Kのことを嫌い、国賊的な発言の多いタナカという講師がいた。かれはやたらと日本人をエコノミック・アニマルだの黄色い猿だのと呼んで蔑んだ。タナカはKの尊敬する老子の<悠々自適の思想>を「社会に適応できなかったアウトサイダーの無責任な空論だ」と軽視していた。それをKは許してはならないと判断した。
 授業中、ジッとタナカの眼を見つめ視線をはなさなかった。しだいにタナカは落ち着きを失い、チョークを握る手もカタカタと震えだした。そしてついに授業終了のチャイムが鳴る瞬間、Kを見つめて「そうか! わかったぞ!」と叫んだのだという。
 タナカは次の授業から思い正したかの様に国賊的な発言をひかえ、Kに対しても親しげに話しかけてくるようになったという。
「あの瞬間、オレとタナカは精神的な次元でつながり合っていたんだ。オレの思念が彼に届いて、彼の歪んだ精神を正しい方向に開かせたんだよ!」
 馬鹿な……まるでSF小説だ。そんな話、あってたまるかと思った。
「それはさあ、ただ単に君の勉強意欲に気づいて、誠意をもって接してくれるようになっただけじゃないのか?」
「犬山、どうして君はそう、人の話を茶化すんだ。」
 
 話はそれだけで終わらなかった。次にKは東大出身のタカハシという講師とも「学歴社会の不毛さ」について議論し、相手が泣き出すほどまでに論破した。しかし、周囲の生徒達は勝利したKを責め「タカハシ先生、かわいいそう……」とタカハシをかばいはじめたのだという。
「そんなの、おかしいだろう? 単なる子供がダダをこねているのと同じだ。心からの優しさではなく、タカハシに同情しているだけなんだぜ? そんなの、人間をダメにする<女々しい優しさ>だ。そうだろ? オレはそういった間違った心を正していくべきだと気がついたんだ」
 
 彼はいくつかの騒ぎを起こしながらも、オウム信者でない事を証明し、次第に周囲の人間の信頼を勝ち取ったという。「オレを慕ってくれるやつらもいた」彼を『変な奴』と見ていた周囲の生徒は反動で『すごい奴』と彼を見直したのだった。確かに、彼の饒舌は人を圧倒する部分もあったし、決して間違ってはいないのだ。ただ、押しつけがましいだけで。
 
「あの頃、オレは高次元の精神世界を見ていた。形而上の世界に生きていたんだよ。あの頃はアタマが冴え渡っていて、本を読んでもすべて理解できるし、人の心の動きも読めたんだ(注:でも、大学には落ちた)。相手が何をかんがえているのか、わかるんだよ。千里眼ていうのはああいう状態を言うんだ。<紫金色に見える>っていう仏教用語があるんだ。悟りを開いた人間には世界が紫金色に光り輝いて見えてくるんだ。オレには見えたんだよ。仏陀は、オレと同じ種類の人間だったんだと思う。あの高次元の精神世界を見れたって事で、オレは一生分の価値を手に入れた本当にすばらしかったよ。犬山、君はそういう精神的な高みに憧れないか?」
 憧れるわけがない。女の裸も紫色に見える世界なんて……。思ったけど彼の前でそんな冗談は言えなかった。
 
 自信を取り戻した彼は、宗教的ではなく、理性的に世界を救うという使命に目覚めた。環境破壊や核の脅威は人間の意識が低いからだ。だから自分が身をもって実証し、全人類を目覚めさせる。
「君はいつかオレは選民主義者だと言っていたね。今になってようやくその意味がわかったよ。ノストラダムスの予言に世紀末、日出る国の天使が世界を救うという記述があるんだ。オレはその天使になるんだよ」
 僕は確かに高校時代、彼に対して<賤民意識の裏返しとしての選民意識>という言葉を使った。しかしそれは、自分を選ばれた勇者か何かと勘違いしているんじゃないのか? 虐げられるイエス・キリストに自分を投影してるだけじゃないのか? という批判を込めた意味合いでだった。
 しかし彼はすでに、人々に自分の思想を広め、浸透してきているという。
「ほら、ちょっと前まで人類は精神世界の存在を誰も信じていなかっただろう? でも最近になって急に肉体よりも精神の方が尊いって事に気づきはじめた」
 それは自分が人類の意識に訴えかけたからだとでも言いたげに鼻をヒクヒクさせた。
 
 そして彼は活動を拡大するため、自分の書いた論文をまず、NHKに持ち込むことを思いついた。深夜、渋谷を訪れた彼は臆面もなくNHKの門を通過した。不思議なことに警備員はあっさり通してくれたという。しかし、制作の偉い人は彼と当たり障りのない会話をしてKにこれは受け取れないと論文を返した。
 諦めきれないKが次に思いついたのは朝日新聞だった。深夜で電車はない。六本木の「朝日新聞社」まで歩いて行くことにした。またもや警備員はすんなりとKを通し、報道部の人間に会わせてくれたという。しかしまたもや、論文は受け取られなかった。
「こういうものは封筒に入れて郵送でお願いします」
 やんわりと断られた。やむなく歩いて下宿に帰った。
「次の日の朝日新聞を見たら、オレのことが載ってたんだ。そんなはずないんだけど、オレが予備校の講師と議論したときのことが克明に書かれていたんだよ。そう見えただけかも知れないけど、本当に、<彼は誠意を持って私を批判した>っていう部分があって、まさにオレが打ち負かした講師の気持ち、そのまんまが書かれていたんだ……」
 
 その後、病状が悪化したKは真冬の深夜、国会議事堂前の車道を大声で叫びながら裸足で走り回っていたところを前から来た政治家の黒いベンツにはね飛ばされてしまう。ケガはなかったが、ベンツのバンパーがへこんでしまった。政治家は「この車は高いんだが……まあ弁償はしなくていい」と言って示談にしてくれたという。しかし、Kの様子がおかしいと思った政治家は警察を呼び、警察から精神病院へと回された。
 
「10人部屋だったんだ。テレビはひとつしかなくて。外側から鍵をかけられてしまうんだけど、10人も中にいるからもう外へなんか出なくていいくらいに楽しいんだ」
 負け惜しみや強がりではなく、心からそう思ったらしい。Kはよく「あの頃は狂っていた。自分でもわかるんだ」と言った。しかしその反面、ナウシカの第7巻に秘められていたメッセージをオレがみんなに広めてしまったから、宮崎駿さん、怒ってるんじゃないかなあ」という様な支離滅裂なことを平気で口にした。
 
 僕たちは半日かけてようやく靖国神社にたどりつき、参拝して帰ってきた。熱い日射しと長い道のりにクラクラしながら、自分が今生きているのだということに実感がもてなくなっていた。きっと、一時の夢なのだ。彼にとっての現実は、まるで僕には夢か幻の世界のことのようで、僕はKの生きる超常的な世界に憧れを抱きながら、同時にそんな異常な世界の住人でない自分に感謝する。Kは凡庸な僕をうらやみながらも自分の勝ち取った高次元の精神世界にしがみつく。
 狂人の無垢は、僕を脅えさせる。彼は平気で僕たちの世界を破壊するだろう。しかし彼の世界は銃弾一つ程度じゃビクともしない。僕はただ、今まで自分の信じ続けていた日常をいとも簡単に彼の言葉たったひとつで壊されるのが怖いのだろう。熱射病のように浮かされたアタマで考えながら、ぼんやりと家路についた。