犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

映画『コンクリート』

 それはコンクリート詰め殺人事件のときもそうだったんだけれども、彼女がどういうふうに性的な陵辱を受けて、どういうふうに性的なリンチを受けて、彼女の遺体がどうだったのかというのを、なぜ、ここまでね、報道の名の下に再現しなければいけないのかって感じましたね。そのとき、やっぱり読み手の中の感受性としては、犯人のやった非人間的な行為を糾弾するためではなくて、やっぱり、たとえば殺す側、犯す側の視点に立って、一瞬、その視点と読者の視点、メディアの視点が、ぼくにはシンクロしているように思えた。
 
『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』より「対談 大塚英志中森明夫」内、大塚の発言

 
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」をテーマにした渥美饒兒のノンフィクション「十七歳、悪の履歴書」を原作にしたというフィクション映画『コンクリート』を、アップリンク・ファクトリーで観てきた。この事件は僕の世代には「あまりピンと来ない」というのが正直なところで、例のごとく鉄子の解説付きで鑑賞したからこそ事件の背景から目をそむけることなく鑑賞できたのだと思う。それを抜きにすれば90年代に乱造された『ポルノスター』や『ジャンクフード』といったチーマー映画の延長上にさらりと軽く流していたかも知れない。しかし鬼丸や千原兄弟が出演していたそれらのチーマー映画と違って、その重みは別格だ。なんというか、その重みは胃もたれに似ている。『リトルモア』的な叙情のかけらもなく、サブカル好みのオシャレ映画でもなく、かといってVシネ路線の娯楽性もなく、だからといって真摯でジャーナリスティックな視点もない。
 
 賛否両論もあり、たんなる下賤なエログロバイオレンスに過ぎないという意見もたくさん目にしたが、悔しくって不愉快だけれど脚本も映像もそれなりによく出来上がっていたと思う。正視に耐えない不快感をしっかりと観客に焼き付けている。だからこそ話題性のわりに客の入りが少ないのはもっともだ。
 いや、映像から目を逸らさずに意味を読み取ることの難しさを強要する映画だからこそ、万人には薦められない。事実、僕は涙ではなく胃液のこみあげる絶望感を感じたし、この映画を観た後に2時間でも3時間でも鉄子と議論できる自分に気がついた。しかしそれによって、誰かに優しくなれた気もしない。どんなにメディアで経験値を稼いでも、強くはなれない。それはドラクエはぐれメタル相手に経験値稼ぎをしてレベル99を目指す虚しさだ。
 
 90年代末、僕はサブカル全盛期であり、夜ごと『ロフト・プラスワン』に通ったり、AVの撮影現場に潜り込んだり、エロ本で不快な実録ルポを書いたりしていたけれど、この映画の≪けがらわしさ≫はそういった現場に漂う≪負のオーラ≫と似ている気がした。人が人を傷つける場面に立ちあったり、不快な体験をすることによって僕はマゾヒスティックに強くなれるような幻想を抱いていた。おそらくサブカル少女がキャーキャー言いながら死体写真を鑑賞するのも、あえて汚れに身を浸すのも似た部分があるのではないかと思う。それは<偽悪>の極北だ。V&Rの映像をオールナイトで浴びるように鑑賞するのも、病気やボッタクリのリスクを負って歌舞伎町や地方のストリップ劇場を取材するのも、修行に似ていた。
 
 連合赤軍を扱った『光の雨』を観た時にも似たような精神状態に陥ったが、あの映画は≪ドキュメント映画の撮影現場≫を題材にしたフィクションという体裁をとっていたがために最後の一線を越えてはいなかった。そこの部分が、自分自身と事件のリアリティに距離を置いて、冷静な考察の余地を残していたのだ。
 
 観て後悔はしていないが、誰にも勧められない。主題が明確でないだけに、良くも悪くもとれるし、『バトル・ロワイアル』と同じく悪趣味なスプラッター・ホラーと解釈してしまう人間がいてもおかしくはない。
 
 映画のラストで「彼らは命の尊さに気づくでしょうか?」という問いかけのモノローグが流れる。それは取ってつけたようでもあり、作品の主題でもあるかのようなニュアンスも含まれている。だが、祈りはむなしく事件の加害少年のひとりはつい先日、おなじ過ちを繰り返してしまった。
 

 昭和六十三年に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」で逮捕された少年四人のうちの一人が、知り合いの男性を監禁して殴るけるの暴行を加えたとして、警視庁竹の塚署に逮捕監禁致傷の疑いで逮捕されていたことが三日、分かった。
 
2004年07月04日(日) コンクリ詰め殺人有罪の男 監禁、傷害で逮捕

 
 ほかの加害少年たちもすでに何人か出所して、いまだに地元でヤクザの下働きみたいなことをしているらしい。
 ≪普通≫なんて言葉はこの世に存在しないのかも知れないが、少なくとも僕ならば罪を犯したその街でのうのうと暮らし続けることはできない。「ここではないどこか」へ行って、やり直そうと思うだろう。劇中の描写を観ていても思ったのだが、≪ヤンキー≫や≪ドキュン≫というカテゴリーに含まれる人々の土着信仰は一体どこから来ているのだろう? 加害少年たちは、被害者である女子高生を自分が逃がせば、自分が仲間に殺されると怯え、互いに牽制しあっていた。怯えながら恐喝し、怯えながらレイプし、怯えながら暴力をふるい、誰もそのサイクルから抜け出そうとはしなかったから犯行は激化していった。決して事件に荷担したすべての少年たちが心から楽しんでいたわけもなく、少なくとも嫌々やっていた人間もいたはずだ……と思いたい。恐怖による連帯感が彼らの仲間意識を形成している。そんな苦しい状況で、なぜ女子高生を逃がして自分自身は「ここではないどこかへ」逃げようという発想は生まれなかったのか? 親兄弟に対して暴力をふるい、血縁なんてものにはなんの執着もないのだと仲間うちに示すことができるのに、なぜ何もかも捨ててその土地から離れるという選択肢がなかったのだろう。その後天的な帰属意識の根の深さにこそ、僕は違和感を覚える。
 
 しかしこの、地元から逃れられないという呪縛は、『木更津キャッツアイ』において誰もが共感したモラトリアムとしての<地元>でもある。木更津生まれの主人公・ぶっさんは、未だこの方、木更津から一歩も外へ出たことがない。そんな彼はもちろん東京なんて知らないし、ディズニーランドにも行ったことがない。
 

 ぶっさんが高校を卒業しても生まれ故郷の街から出たことがない、というのはなかなか興味深い設定です。昔、吾妻ひでおさんが西武池袋線沿線に住んでいて、そのターミナルである池袋の先には滝がある、というギャグをどこかで書いていましたが(後略)
 
『キャラクター小説の作り方』 大塚英志

 
 確かに高校時代の同窓会で練馬に行くと、同級生は地元で就職して仲間同士一緒の運送会社で働いていたり、クラスメイトと結婚したり、毎日のように宴会してたり、ヤクザの下部組織に入って駅前の露店をバミっていたりと、違う学区から通っていた僕はいつも疎外感を感じる。「ここではないどこか」の不在、それはあこがれであると同時に恐怖でもある。 さらに、この映画の最大の恐怖は、自分が加害者だったら、被害者だったら、あるいは加害者をかくまう親の立場だったらと、現実に即して考えてしまう部分にあるかも知れない。僕はこの映画を観て「決してそんなことはあり得ない」なんて風には思えなかったからだろう。
 
◆コンクリート OFFICIAL SITE http://www.benten.org/concrete/