犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ペテン師志願

僕は日常の中にサプライズを求めてしまう。僕が手品に求めるのは魔術的なときめきであり、準備周到な非日常の中で何が起ころうとそこに魔術的なときめきなど感じられるわけがない。  荒木一郎の小説『最後の手品』には、彼自身のかなり辛辣な意見が盛り込まれている。
 

「手品師の態度に挑発的なところが見えるからこそ、客はタネを見破ろうとしたり、ついつい受けて立つようになる。手品は、パズルなんかじゃ決してないんだとカーニーはいってるんです。(中略)手品っていうのはね、魔法なんですよ。現代の油気のない乾ききった社会に残されている魔法なんですよ(中略)だから手品師は、すてきな魔法を見せてあげるつもりで、手品をやらなければいけない。魅力的な演技をもってすれば、お客さんは手品を十九世紀には存在していた夢の世界の幻想としてとらえてくれるんだ」

 
 荒木一郎が得意とするクロースアップ・マジックというのは決して舞台向けではない。特にカードマジックの多くは術者と観客、一対一で向き合って演じるものが多い。目の前にいるたった一人の人間を魔術の世界に誘うためだけに、まわりくどい仕掛けや策略を練り、四苦八苦する。
 
 そんな荒木一郎以上に、僕が尊敬するマジシャンが一人いる。マックス・マーリニというポーランド生まれの奇術師で、彼は常に人を驚かせるために帽子の中にレンガや氷のかたまりをかくして外出したという。マーリニは決して自分から奇術を見せようとはせず、人からせがまれて初めて披露したという。酒場で酒を飲んでいる時も、いつ披露することになるかもわからない奇術のために、氷のかたまりやビールジョッキを30分以上もスーツの下の小脇にかかえて待ち続ける。あるいは、はじめて訪問した家庭の絵画の裏に一枚のトランプカードを仕掛け、その模様と数字を覚えておく。そして次にその家庭を訪れた時、はじめて手品を披露する。もしかしたらもう二度とその家には呼ばれないかも知れず、呼ばれても数十年先の事になるかも知れない。それでもマーリニはタネを仕込み、根気よく時期を待ち続けた。
 非常にバカげた話だが、こうした魔法を日常に散りばめることができたら楽しいだろうなと夢想してしまう。
 

「日本っていう国はね、トメさん。技術や芸が達者だかっらって一流とは評価されない国なんだよ。いってみれば、何が一流かを大衆が知らないんだ。芸が何か、技術が何かを見る力を国民が持ってないという国なんだよ」
「たとえば、日本でいう一流の手品師は誰だと思う」
「日本の大衆が一流と思ってる手品師は、死んだ引田天弘や伊藤一葉、それに現在ではマギー四郎なんかだよ。なぜ、一流だかわかるかい」
「テレビに出るからさ。しかしね、トメさん。死んだ人間を悪くいうつもりはないんだがね、あんたも知ってるように、伊藤一葉なんてのは手品師としては三流だった。いや、手品なんか、ほとんどできない人だったといったって過言じゃない」
「しかし、天弘さんなんかは、ずいぶん努力してたように思いますが」
「努力はしたよ。しかし、あれは技術のための努力じゃない。有名になるための努力さ。彼は、そのためにはなんでもしたようだ。たとえば、おぼえてるかね、いつだったかマジックスペシャルの番組で、天弘が檻の中のライオンと人間を入れ換えるイリュージョンをやってみせたときのことだ。あの魔術は、あんたも知ってるように、アメリカではシーグフリードなんかが得意としてる。しかも、シーグフリードとロイは、魔術の中に猛獣を取り入れるという新しい技を導入してみせた。つまり、手品師と猛獣使いの二役をやるという芸をあみだした男たちだ。むろん、天弘には、そんな技術はなかった。そこで、どうやって檻の中の人間と、別の檻に入っている猛獣を瞬時に入れ換えたと思うね、トメさん」
「ビデオテープさ」
「テープを編集したんだ」
「それが、日本の一流の手品師が考えたネタだ。なんの技術もいらない。芸もいらない。練習する必要もない。どう思うかね」
「マギー四郎にしても同じだよ。アレは漫談をやってるだけで、手品は、ほんの色づけでしかない。技術のいらない手品しかやらない。手品は、有名になるための小道具の役割しかしてないんだ」
「わかったかね、トメさん。日本っていう国はそういう国さ。一流になるためには、技術や芸はいらないんだ。それどころか、そんなものを持っていれば、逆につまはじきにだってなりかねない。芸のない人たちのあいだに、突然、芸のある人間が出てきたとしたら、どうするかね。みんなでよってたかって殺してしまい、自分たちの権利を守ろうとするだろう」 
 
「最後の手品」より、セリフ部分のみ引用
『雨の日にはプッシィ・ブルースを』/荒木一朗収録