犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

円山町ブルース

 コンビニエンスストアで百円玉を千円札に、千円札を一万円札に「逆両替」し、井の頭線の終電で菓子パンを食い散らかし、円山町の暗がりで立ち小便をする。マスコミに報じられた彼女の行動の一端を知ったとき、私のアタマにまっさきに浮かんだのは、坂口安吾がまだ焼跡が生々しく残る戦後まもない昭和二十一(一九四六)年四月に発表して大きなセンセーションをまき起こした『堕落論』のなかの一節だった。
 
<……(略)人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は墜ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない>
 
『東電OL殺人事件』佐野眞一

 

 鉄道マニアであると同時に犯罪マニアでもある妻に連れられ、『東電OL殺人事件』の舞台となった円山町へ駆り出された。佐野眞一の著書はまだ読んでいなかったので、妻から事件ついての解説を受けながら、渋谷から道玄坂をのぼり京王井の頭線神泉駅を目指す。途中、交番を左折してうらびれた感じのラブホテル街に入ると、大きな料亭の敷地をえぐるような角地に『泰子地蔵』と呼ばれる地蔵尊が立っていた。事件の被害者・渡辺泰子を悼んでOLたちが地蔵の口唇に紅を塗ってゆくのだという。
「この電信柱の陰でオシッコしてたのかしら……」 
 そう言いながら地蔵に手を合わせる。
 

 神泉駅のすぐ脇にある踏切で電車の通過を待っていると、どこからともなく三味線の音がポロン、ポロンと聞こえはじめ、怯えたような眼差しでジッと僕の顔をのぞきこみながら猫が横切った。いつ現れたのか背後には地味な色合いのジャンパーを着て無精ひげを生やした肉労系のオヤジが立っていた。
「ほら! そこ、そこだよ! すぐそこを右だよ!」
 最初、遮断機の下りた向こう側にいる友人とでも会話しているのだとばかり思っていたが、そうではなかった。独り言のようでもあり、周囲の人間に訴えかけているようでもあった。今になって思えば、事件現場を指さしていたのかも知れない。少し情緒不安定な目つきをしていた。
 

 踏切を渡ってすぐのところにあるボロアパートがどうやら事件現場だったらしい。事件当時そこは空き家で、被害者はホテル代を惜しみ部屋に忍び込んで商売していたという。そのすぐ隣のアパートが容疑者として逮捕されてしまったネパール人の家で、ふたつのアパートの間にある駐車場で立ちながら行為して金を受け取ったこともあったようだ。そこにピンクの首輪をした猫がいたのでコンビニで買ったツナサンドをあげてじゃれあっていると、向かい側のマンションから何やら経文のような声が聞こえてきた。耳を澄ますと、それは経文ではなく愚痴のようだった。
「――金にがめつい亡者さ。そうだよどうせおまえなんか殺されてるよ。良かったな、犯罪者でな! いつもいつもわたしは……」
 年老いた女性の声で、そんな言葉を機銃掃射のごとくまくし立てていた。延々と、支離滅裂ではあるが一貫して世間への憎悪を吐露し続ける。単なる偏見なのか、あまりにあらゆる現象が偶然を越えて必然性を帯びていた。
 
 被害者は拒食症で、骨張っていてとても抱きたくなるようなカラダではなかったという証言もある。しかも神泉で立ちんぼをしていたのは彼女ひとりきり。あえてこの地を選んだ理由が気にかかる。
 北千住のホテル街にはすでに頭髪の抜け落ちた老婆が立っており、かつては数千円で商売していたのが数百円になり、今ではラーメン一杯おごってくれたらヤラせてくれるのだという話を知人から聞いたことがある。 
 妻はしきりに「泰子さんに引っ張られてる気がする。自分も神泉で立ちんぼになってしまいそうな気がする」というようなことを言っていた。
 
 すっかり荒んだ負のオーラに毒されて、裏道を抜けて松濤方面へ脱出した。ビールを飲みながらフラフラあるいていると老人ホームがあり、品の良さそうな老婦人が一面ガラス張りのテラスで日向ぼっこしていた。なんとなく目が合い、お互い会釈する。
 
 せっかくだからと地図を頼りに近くの鍋島松濤公園に立ち寄った。はじめて来たはずなのに、妙な既視感を抱いた。デジャヴなのか前世の記憶なのか、僕はその風景を見たことがある。
「あれ、おっかしいなぁ……。ココ、来たことあるよ。ヤクザ映画の撮影かなにかで……」
 ここで池の水に飛び込んだことがあるような気がした。いやしかし、濡れたという記憶はないから誰か他の出演者が飛び込むところを見たのか……。
むかし、自主制作の映画を手伝って渋谷で撮影したことがあったので不思議はない。記憶の混乱に狼狽しながら狭い公園内を散策していて、ふと気がついた。
そうだ、これは自分の記憶ではなくセガサターンでプレイした『街』というサウンド・ノベルの1シーンだ……。確か、売れない俳優がVシネマの撮影でこの公園の池で死体役を演じるというシナリオがあった。そのゲーム画面とまったく同じ風景だったのでなんだか自分の体験と錯覚してしまったらしい。