犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

オタクと格差と絶望感

 
秋葉原の無差別殺傷事件で、被害者の方と自分の本名がかなり似ていた為、心配されてしまった。どうも周囲からは秋葉原に通っているというイメージを持たれているらしい。
 
僕はオタク趣味というのはもともと一種の精神疾患だと思っている。だいたい、そういう「危ないヤツ」という目で見られた最後の世代だからこそ、痛感する。宮崎勤の事件以来、オタクは理論や優しさを振りかざして自己防衛してきたけれど、やはり内面に鬱屈したものをかかえているからオタクになるわけで、それが良い方向に働くこともあれば悪い方向に働くこともある。鬱屈した精神が完全悪かといえば、そんなこともなく、劣等感がスプリングの役割を果たして大きく羽ばたけることもある。だいたい大成する作家やお笑い芸人の何割かは引きこもりや生活上何らかの問題を抱えていたりする。
 
オタク趣味を持っているから危ないのではなく、不安定な精神状態とオタク趣味との親和性が高いのだ。まず人との交流は最小限で済むし、趣味に没頭している間は外的なストレスも極力減らせる。執着心のようなものを満足させる方向にもいけるし、分裂症気味に好みがあちこち分散しても、それはそれでアリな世界だったりもする。ネット環境の充実で、さまざまなコストが下がっているから貧乏でも時間に余裕さえあればオタク知識の補充には事欠かない時代になりつつある。
 
自分が自閉気味で、学校はもちろん家族とすら口をきかなかった頃、図書館に引きこもることで何か現実世界で遂げられない願望の実現や成長を補おうとしていた。社会的なものや肉体的なスキルでかなわないから、せめて目に見えないものであがなおうとした。それは一歩間違えば、今でいうスピリチュアルな世界だった。酒鬼薔薇少年に憧れ、自己顕示欲の発露としての少年犯罪を夢見て、鬱屈したものを抱えながら、心地よいコンテンツを消費し続けた。
 
オタク趣味は一種の精神疾患であると書いたけれど、心の不安定さがすぐに犯罪に結びつくわけでもなく、かといって犯罪を犯さないという保障があるわけでもない。もちろん、通常よりもリスクは高くなるだろう。それくらいの「あやうさ」はオタクに限らず、どこにでも転がっている。ギャンブルや貧乏だって、危ういし、金持ちには金持ちなりの「あやうさ」があって、インサイダー取引なんてオタク・コンテンツの消費以上の誘惑だろう。
 
オタクと一括りにするのがそもそも誤解のもとだ。岡田斗司夫が「オタク・イズ・デッド」と言ったとき、萌えや世代論に目が向きがちだったけれど、実は格差の問題も大いにはらんでいた。
僕が十代の頃はまだオタクやマニアになるには辛うじて膨大な資金が必要だった。マンガやゲームやCDをコレクションするには金が必要だし、ある意味子どもが真のオタクとして成長するには親の収入による格差が大きかった。それが絶望的なまでに越えがたい壁であり、オタクを自認する人々に対するコンプレックスの源だった。僕はオタクに憧れ頑張ってみたけれど、結局なれず終いだった。オタクというのはかつて、親の金で大学に行けるような富裕層の子どもたちが自称する一種の特権階級だった。
けれど、今の若い世代は、知識の蓄積くらいだったら動画投稿サイトや2ちゃんねるのダウンロード板で補完できる。たしかに情報は一次情報に勝るものはないから、直接人から聴くのが手っ取り早いし、幅広い人脈というのは欠かせないが、人間同士が直接郵便やオフラインでビデオテープの貸し借りや交換をしていた「1対1」の時代に比べて、一人の人間が無数の人間に情報を発信したり、ネット上に溢れる無数の情報をチョイスすることでたやすく手に入れられる時代の社交性スキルというのは低く見積もられても仕方がない。しかし、格差が狭まることで精神的に救われた僕のような人間は少なくないと思う。
要約すれば、かつてオタクは資金の潤沢なブルジョアジーの趣味だったが、今は金銭の有無よりもコンテンツの消費にどれだけ時間を費やせるかという問題になりつつある。そうなれば、金にも困らずヒマもあるというニートのような人間にはかなわない。それに気づいてしまった時、オタク批評的な世界に不毛さを感じてしまった。
 
ちょっと前に大量消費するオタクの経済効果は数千億円という話があったけれど、それを支えていたのは激安でフィギュアの生産を請け負う中国の工場だったり、ほとんど中毒症状のような状態で脊髄反射的にグッズを買いあさる人々だったりして、単純にオタク・エリート主義や未来を楽観できるようなものではなかった。その膿が、去年末から今年にかけて一気に吹き出した感がある。
ワーキングプアサブプライムローン問題も食糧危機もエネルギーや環境に関する問題も、実は無縁い。オタク文化を支えているのはたとえば、ファスト風土関連の記事でも触れたように、効率化の代償として失われてゆく生活の安定だったりする。単純に言えば、良い物を安く買える代償として収入は減り、他人と関わることを避けながら暮らせるくらい豊かで便利になる一方で、目には見えにくい搾取構造のようなものが完成した。
かつては不幸な人が増えれば、心を病んだ人が増えれば増えるほどデパートが儲かると言われてきたけれど、今は低所得層にオタク趣味が浸透したおかげで不幸な人間が増えるほど、病人が病人にコンテンツを提供しながら自己増殖的にオタク文化が拡大してゆく。オタクに限らず、昨今のホストブームなんかも似たようなものだし、貧困ビジネスなんかもそうだ。不幸な人間を食い物にしてビジネスが成立する一方、そこから搾取する人間たちも決して幸せそうではないし、本当に幸福な人たちなんてどこかにいるのだろうか? 辛うじて今まで、日本人は全般的に幸福だったし、その幸福がグローバル化によって世界に分散しつつあるのかも知れない。しかし、それによって他の誰かが幸福になっているかといえば、近視眼的には中国などの経済発展があるけれど、それすら長期的に見れば明らかに危うい。明らかに「生きること」に直結するようなスキルに欠ける人間は生きづらくなっていて、そういう意味で豊かさと余裕を失いつつある日本でオタク趣味を自己のアイデンティティとしているような人々はこれから一層、息苦しくなっていくだろう。
世界はかつて村上隆スーパーフラットと名付けた状態とは別の意味でフラット化し、それにともなって日本という国はそれまで上げ底されていた部分をとっぱわれてしまった。かつて豊だったこの国のモラトリアムが終わって、だけど僕たちはまだ遊び足りないとダダをこねているだけなのかも知れない。
 
結局、オタクが悪いのではなく、オタクは不幸なのではないかという気がしてならない。アニメやマンガやゲームがもたらす感動や快感は素晴らしいし、それは人生の慰めにはなるけれど、それ自体が人生ではない。あくまでも人生の潤いであって、消費に命を賭けるなんて苦行以外のなにものでもない。
ワーキングプアネットカフェ難民ニート問題を取り上げるとき、彼らが社会的な被害者なのか、あるいは本人の甘えなのかに焦点があたる。しかし、どちらの意見にも一理ある。ただ普遍的に言えるのは、やはり彼らは不幸だし、僕らは不幸だ。なぜなら、これまで弱さを許され、強さを身につける機会を自ら放棄し続けてきたのだから。オタクもサブカルもアングラも、あらゆる若者文化というものは、あえて幸福から遠ざかることでしか、自分に言い訳できない側面をもってきた。
 
人間は、幸せになることでしか癒されない。それを宗教やギャンブルやオタク趣味や恋愛で癒そうとしても、いつかボロがでる。しかし、今の世の中の流れでは、明らかに幸せの代替え品として、小さな不幸ばかりのニセモノめいた幸福を売りつけるようなビジネスばかりが氾濫している。
自分が犯罪を犯さなかったのはなぜだろうと、いつも事件が起こるたびに思う。自分自身の能力の無さや、家庭環境、いろいろなものに不満はあったし、いつも心にナイフを忍ばせていた。実際に家出してしまったというのは良い方に働いたのかも知れない。だけど、やはり極限状態の絶望を回避できたからだ。
 
今回の秋葉原の事件と並び称される戸越銀座の通り魔事件、土浦の荒川沖の事件など、明らかに自分自身がかつて抱え込んでいたものと共通するものを感じてしまう。それは、自分自身の力で生きる事への自信のなさと、自暴自棄だ。
特に戸越銀座は地元で、僕自身も決して無関係ではない。あの不幸な事件は同時に、商店街の人々の連携がお客さんを救い、日頃の防犯意識が世間に喧伝されるきっかけともなった。しかし、本来ならばもっと前段階で食い止めることがでなかったのかと、少なくとも僕は悔恨の念みたいなものを抱き続けている。異質な者を排除するのではなく、受け入れることで犯罪を未然に防ぐことはできたなら、それが一番理想的なわけで、それは自分がやっているキャラクターやイベントだったり、もっと身近な地域社会や家庭の課題なのかも知れない。
確かに犯人は凶悪だし、その異常性は我々にとって脅威だ。しかし、彼らをどうにか救わなければ、自分自身の生活がさらに脅かされる。これ以上不幸な人間が増えれば、当然自暴自棄な人間は増える。人を殺さないまでも、持てる者から略奪したり、芥川の『羅生門』みたく弱者同士が奪い合うことになるかも知れない。少なくとも小市民的生活は脅かされる。他人の不幸によって、自分の幸福が脅かされるのだとしたら、それはもう無視できないだろう。福祉や慈悲の精神などという偽善ではなく、もっと利己的に考えてみても、答えはひとつだ。みんなで幸せにならなければ、意味がない。自分のためを思うなら、他人のことを考えざるを得ない。
 
すべての人が幸せにならなければ、本当の幸せなんてあり得ないというような意味の事を宮沢賢治が言っていたけれど、それこそが貧困化してゆく世界で生きる術なんじゃないかと思う。大きな視野をもって、利己的で効率的に思考すると、皮肉なことに偽善めいた結論が導き出されてしまう。