犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

心の時代

 
裁判員制度というのは結局、「法」よりも国民の感情に判決をおもねるための制度なのではないかという事な気がする。
そりゃ道徳的な人々の「感情」にまかせたら、刑は重くなるだろう。
人間は放っておけば私刑や拷問を娯楽代わりに楽しんでしまうような生きものなのだから。
 
ここ最近の世の中の動きを見ていると、いよいよポピュリズムという名のヤンキー的な世界が形成されつつあるなと思う。
ヤンキーとオカルティストというのは非常に似ていて、両者の共通点は、本当の事よりも「感情」の方が尊重されてしまうというところにある。
科学的な事実よりも占いにリアリティを感じ、真実よりも「説得力のある嘘」に惑わされる。そして反省や後悔よりも、明るい未来の展望を信じる楽天家なのだ。
 
タレント議員が跋扈し、自民党民主党国民感情のみに重点を置いて選挙を戦っている。
二世議員というのも、親の知名度や親近感に便乗しているという点で、人気の取り方はタレント議員と変わらない。 
宮崎駿は後先考えぬ若者の愚かさに未来を託し、庵野秀明はオタクの動物的なカタルシスを満たすような作品で僕たちの心を満たしてくれている。
大手企業は、決して直球勝負ではないけれど、相手のウラをかいて戦略を練ったあげく、肉眼ではストレートにしか見えない剛速球で消費者の心を鷲づかみにするような、そんな商法が勝ち星をあげている。
 
政治も経済も、より「感情」を揺さぶった方が勝ったり儲かるのだ。
つくづく「心の時代」がやってきたと思う。
 
国民の38%が「あの世」を信じ、若者の半分が「あの世」を信じているという。
感情的に正しいことが、本当に正しいとだと錯覚されがちな世の中になってきているという事なんじゃないかと思う。
 

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昨日のオールニートニッポンは面白かったと思う。
 
僕は常々、従来の「心霊主義」に疑問を抱いていて、なんだか幽霊やあの世を信じる人間というのは了見が狭いのではないかと思っていた。
心霊主義者というのはたいてい、幽霊は信じるけど妖怪は信じない。
だけど僕は小学校二年生の時にバックベアードという妖怪を見たことがあるし、新耳袋にはポケモンを目撃したという怪異譚が記されている。
だいたいペテン師というものは、みずからもっともらしい事をいうものだ。
「私は死んだ○○の霊です」と自ら名乗るような存在が目の前に現れて、それをホイホイ信じてしまう霊能者というのはちょっと無防備過ぎるような気がする。
電話に詐欺師が「オレオレ」と名乗り出て、息子や孫に成りすますような世の中で、相手の名乗りを真に受けていいのか?
だいたいもっともらしい事をいうような人間というのは嘘をついている事が多い。
人当たりのいい人間というのは腹にイチモツ抱えていたりする。
真実よりも嘘の方が説得力はあるものだ。
死人の霊だと名乗る者が、実はキツネやタヌキの類でないとは言い切れない。
そもそも一昔前なら、死人が目の前に現れたらそうそう素直に本人だとは判断しない。
夜道ですれ違った相手すら、狐狸の類を疑い、電話に出た相手すら疑う。
荒俣宏によると、「もしもし」という電話の第一声は、相手が人間かどうかを確かめる合い言葉のようなものなのだという。
 
オカルトに意味があるとしたら、現実や常識に対して「疑う気持ち」を育むところにある。
決して「信じる心」を育むものではない。
ネッシーの有名な写真がトリックだったからといって、ネッシーが実在しないということもないだろう。
あれこそ恐竜の幽霊かも知れない。
なぜ幽霊は人間ばかりなのか、その辺りも納得がいかない。
現代の心霊主義、あるいはスピリチュアリズムというのは、どうも人間を贔屓しすぎている。
たいてい怪談というものは、人間のカタチをした幽霊か、人間の半径50メートル以内にくらいしているようなペットしか出てこない。
どうも心霊主義というのは人間の想像力を制限するリミッターなのではないかと思う。
心霊主義に侵された人間は、感度が鈍って通り一遍の心霊体験しか経験することがない。 
エンターテイメントの世界では、フランケンシュタインポケモンといった実在しない怪物をテーマに作品を作るときですらお祓いをするという。
お岩さんなんかも、実在の人物とはかけ離れて造形されているから、あれも架空の人物みたいなものだ。
しかし、それにも関わらずフランケンもポケモンもお岩さんも祟る。
この世に実在しないものだって、祟るのだ。
 
幽霊は死人の魂で、それがこの世に未練を残して姿を現すという説は実に説得力がある。 
ゲゲゲの森に鬼太郎やネズミ男が住んでるというよりも説得力がある。
しかし、説得力があるというだけで裏付けはない。
仮説であるという点では、あらゆる科学とまったく同じではないか。
 
昨日のオールニートニッポンを聞いていて思ったのは、山口敏太郎というオカルト作家も、巨椋修というリアリストも、結局世の中のすべての事に対して疑ってかかっているのだ。
だから山口さんは「霊はいる」とか「あの世はある」というスタンスではなく、「霊はいるかも知れない、あの世はあるかも知れない」というポジションで語る。
それにたいして巨椋さんは「霊はいない」とか「あの世はない」というスタンスではなく、「霊はいないかも知れない、あの世はないかも知れない」というポジションで語る。
実は両者が歩み寄って語り合っているから、互いに矛盾もしなければ対立もしない。
だから互いに相手の意見を素直に聞き入れることができるのだと思う。
 
僕は霊が存在するのなら、妖怪だって存在すると思っている。
自分自身がバックベアードという妖怪を目撃したことがあるし、妻は小人を見たことがあるという。
自衛隊時代にベッド・バディだった元ヤンは、富士の樹海で仲間とシンナーを吸っていたときにダイダラボッチみたいに巨大な顔が梢の間から覗くのを見たという。「その場にいた全員が目撃したのだから、間違いない」と熱く語っていた。
妖怪は間違いなく存在するし、固有の体験は現実に違いない。
もしも幽霊は実在するが妖怪は実在しないなどという人がいるのなら、僕はそれこそ無神論者と同じ「石頭」という過ちを犯しているのではないかと思う。
あらゆる可能性を吟味してこそ真実に近づける。
 
ある夏休みの深夜だった。
ふと目が覚めると部屋のドアがノックされ、バックベアードが音もなく入ってきた。
水木しげるの描く枝状のモヤモヤは霧のように揺らめき、大きな目がこちらを睨んでいた。
子供だった僕は、眼をそらしたら舐められて襲いかかってくるのではないかと思ってずっと相手を睨みつけていた。
向こうが攻撃を仕掛けてきたら、いつでも布団を飛び出せるように身体を強張らせていた。
バックベアードは僕の身体の真上までフワフワと浮遊しながら移動してくると、そのまま動かなくなった。
完全な持久戦に持ち込まれ、僕はいつしか根負けして眠ってしまった。
再び眼を開けるともう朝で、バックベアードの姿は消えていた。
 
幽霊を信じるという人にこの話をすると、たいてい笑われる。
しかしあの体験が単なる夢や幻覚だというのなら、世にはびこる心霊体験の数々も夢や幻覚だって怪しいものだ。
しかし僕はその場の空気の揺らめきを肌で感じた。
重くのしかかってくるような空気と布団のニオイや感触を、今でも覚えている。
僕自身、半信半疑であれがそのまま妖怪バックベアードだったなどとは思っていない。
宇宙人かも知れないし狐狸の類である可能性は充分にある。
幻覚かも知れないし、幽霊がたまたま変装して現れたのかも知れない。
サンタクロースのように両親が成りすましていた可能性だってあるだろう。
あらゆる可能性があるからこそ、オカルトは面白い。
 
実はあらゆるオカルト雑誌はフラットなのだ。
相反する事象を平気で並列する。
執筆者や読者に偏執的な部分があったとしても、誌面は常にフラットだ。
一個人の考え方や体験を、ただ無感情に貼り付ける。
 
何かを頑なに信じたいのなら、占いやオカルトよりも宗教に走った方がいい。
あるいは右翼や左翼といった、固有の思想にかぶれるのもいい。
オカルトは懐疑主義者の道楽なのだから。
すべてを疑って、あらゆる可能性を模索してこそ真のオカルト・マニアだと思う。
隠蔽されたヴェールの向こう側をのぞく快楽こそオカルトの神髄であり、真実は感情的な正しさの向こう側にある。
 
オカルティストは単なる信者ではなく、求道者であるべきだと思っている。
1つのジャンルの本を100冊読むことは、自分の思想を補強することにしかならない。
しかしオールジャンルの本を100冊読めば、常識どころか自分自身すら否定され、あらたな次元が開けるだろう。
その破壊された自我の向こうに広がる新たな空間にこそ、オカルティストの楽園がある。