犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ディズニー供養

 
昨今の葬儀ブーム…
あるいは「新しい葬儀論ブーム」に乗り遅れてしまった。
2、3年前から目を付けていたのになあと、悔しい気もするが、
新書ブームの時ですら権威のない僕ごときが企画しても通らなかったのだから、
コンビニ本の企画と一緒に出したところで通るはずもないのだ。
 
少子高齢化でおそらく「死」は身近になった。
老人にとってはもともと「自分の死=葬儀」は身近な話題だし、
若者にとっても貧しい老後しかイメージできない現在、
かつて輝かしいイメージを帯びていた「未来」や「将来」といった単語すら「死」に直結しはじめている。
電車が人身事故で止まったりするたび、無感動な自分にかえってギョッとする。
 
こないだテレビで健康寿命という言葉が紹介されていた。
日本は平均寿命は高いが、それは介護によって延命されているからに過ぎないというのだ。
いろんな不安を抱えつつも、
我々は今、死を畏れながら同時に待ちわびている。
数十年に一度おとずれる墓や葬儀に関する論争やブームの背景には、
「死への恐怖と期待」が入り乱れたアンビバレントな感情が隠されているような気がする。
死ぬのは怖いけど、ちょっと楽しみだったり、
痛いのはいやだけど、死こそ最後の安住の地であるような気がしたり、
不明瞭だからこそ、人間は「死」に様々な意味づけをしてしまうものなのだ。

 
うちの父親なんかは、
いまだに大きな仏壇と立派な墓にアイデンティティを抱いている。
 
一方、離婚した母親は、とある新興宗教を脱退してからしばらく宗教を渡り歩いていたが、ここ最近はそういったものから遠ざかっている。
かつては何十万もする新興宗教の仏壇を次々に買い換えてそれがトラブルの原因となったが、今ではすっかり熱も冷め、
たまに自宅を訪ねてゆくと、慕っていた祖母の写真とお供えのお菓子や果物、
それを囲むように僕のあげた韓国土産やぬいぐるみなんかが飾られている。
あるいは、ぼくのデザインした着ぐるみキャラクターの写真なんかも一緒に置かれていて、やや混沌とした様相を呈している。
その、宗教を背景としない独特の祭壇は、
かつて新聞記事から切り抜いた少女の写真を
ゴシック調の家具や雑貨で飾って祭壇を作っていた
ヘンリー・ダーガーのようだ。
 
しかし個人的には、従来の「葬式仏教」に固執する父よりも、
自分にとって愛着のある品々を集めて作った母親の祭壇こそ、
供養や弔いの方法としては「納得」できてしまう。
 

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かつてディズニーで働いていた頃、
ゲストとお話しをしていると「実は今日は死んだ子の命日で…」みたいな話に遭遇することがたまにあった。
命日でないまでも、おそらく亡くなった身内がディズニー好きで、その想い出とともにおとずれるという人は少なくなかっただろう。
死んでないまでも、よく子供と来てたんだけど、子供が成人して巣立ってからは夫婦で来てますなんて話だったらかなり多かった。
 
「故人を偲ぶ」という意味では、よっぽど墓参りよりも供養になるような気がする。
何より、供養というものが「死者」のためではなく「生者」のためのものであるという身も蓋もない「根源」に立ち返るなら、
特に思い入れもない人間を法要に呼び出して、
退屈な読経を聞かせてうんざりされるよりも、
故人を慕う人間だけが想い出と共に楽しい一日を過ごせる方がよっぽど意味がある。
 
かつて諸々のトラブルで絶版になった『最後のパレード』にも掲載され、
ディズニーをネタにしたセミナーなんかでもよく語られる話がある。
有名な話だし、あらためて語るのも面倒なのでリンクで済ますが↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313704258?fr=rcmd_chie_detail
これなんかも、「ディズニー供養」とでも呼べる好事例だろう。
一部では都市伝説とも言われているが、
顧客満足のためにこれくらいの裁量権は現場にあるんですよという話なので、
おそらく実話だろう。
 

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冠婚葬祭というのは、仕きたりばかりが先走ってオカルト化してしまっているけれど、
要は「みんなが納得するための儀式」である。
葬儀に限らず、結婚式なんかもけっこう興味深い儀式がある。
 
特にブライダル産業を見ていると、「新しいジンクス」どころか「新しい宗教」が生まれつつあるような、そんな息吹を感じる。
オプションで付いてくる新郎新婦が生まれてきた時の体重と同じ重さのテディベアとか、二人で光る液体をそそいでハート型を作る儀式だの、キャンドルサービスの代わりにアロマオイルみたいなのに蛍光塗料を浸した花びらを散らす儀式だの、よく考えるなあと感心してしまう。
さながら、80年代頃に流行った『マイバースデー』などのおまじないブックみたいだ。 
葬儀の仕方は宗派によってそれぞれ違っても、
各宗派の僧侶の話を聞けばけっこう「納得」させられてしまう。
仏教の場合、四十九日というのは共通しているが、他の宗派が三途の川を渡って成仏する過程をあらわしているのに対して、たしか浄土宗は仏のもとで修行する日数みたいな解釈だったと思う。
 

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よくディズニーランドをバカにして「ハリボテ」じゃないかという人がいる。
そういう人にわざわざ説明するのも時間の無駄なので、その場ではニコニコしながら「そうだね〜」などとお茶を濁すが、それを言ったら宗教にしろ社会生活にしろ、全部ハリボテじゃねぇかと思ってしまう。
人間というのは、多かれ少なかれそのハリボテをありがたがって生きているのだ。
 
冠婚葬祭というのも、古いハリボテの説得力が薄れて、
もっと説得力の強いハリボテが出てきたときに少しずつシフトしてゆくものだと思う。
 
ただ、新しいものが生まれる時にはたいてい、その説得力や正当性を強調するために古いものが引っ張り出されてくる。
たとえばこないだ電車の中で見た広告には簡易仏壇が紹介され、柳田邦男が引用されていた。
かつて先祖の霊を祀る祭壇は「魂棚」と呼ばれ、それは野に咲く花が飾られるだけの質素なものだったというのだ。
だから簡易仏壇こそ、本来の供養のカタチなのだという。
 
あるいは先日、創価学会友人葬に出席してきた。
そこで語られるのは、釈迦や日蓮は葬式でお経を唱えるヒマがあったら修行しなさいというようなことを言ったらしい。
だから僧侶が読経する葬式仏教というのは間違っていて、故人と親交のあった友人達で弔ってやることこそが、仏教本来のやり方に近いのだという。
 
まあ、なるほどなあと思う。
ただ、やはりここでも重要なのは「納得」だ。
その価値観を共有していない人間にとっては、どの宗派のどんなやり方も疎外感を抱く要因になってしまう。
友人葬なんかも、信者でない親戚はちょっと戸惑っていた。
 

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先日、マンション型の霊園に行く機会があった。
ICカードをパネルにかざすとベルトコンベア式に遺骨が移動してきて、
パカッと墓石型のフレームに収まるという仕組みだった。
さらにオプションで生前の写真がスライドショーのように移り変わる。
祭壇にはいつでも綺麗な花が飾られ、常にお坊さんも常駐している。
さながら多くの死者達との集合住宅といった感じだから、
「これなら寂しくないなあ…」などと思ってしまった。
 
冬は暖かく、夏は涼しい。さらに雨などの天候も関係ない。
お墓参りする側にとっても、実に恵まれた環境だった。
 
考えてみると、従来の墓ではメモリーできるデータ量が少なすぎる。
墓石に刻めるのは「誰がいつ死んだのか」くらいだし、
卒塔婆は「誰がいつ来て金を払っていったのか」くらいしかわからない。
お供えから個人が生前好きだったものは偲べるが、
先祖代々の墓だったりすると、そのささやかな差異も薄まってゆく傾向にある。
 
それにくらべると、ささいなことではあるけれど
お墓にデジタルデータの肖像画が飾られているだけで印象はだいぶ違う。
故人への思い、感情移入の深さも変わってくるだろう。
 
まだインターネットが登場したばかりの頃、
インターネット上にお墓を作ろうというプロジェクトがあった。
ちょうどその頃に出版された『サイバーストーン』という本があって、
これはなかなか名著だったと思う。
 
巣鴨に寺院を持つ住職の書いた本なのだけど、
これからの時代、遺骨を焼いて墓を建てるというスタイルがそもそも間違っているのだという話を延々と書いている。
なぜ墓を建てるのかといえば、故人にまつわる何かを残しておきたいからだ。
だったら、遺骨では役不足だろうというのだ。
代わりに提唱するのが「髪の毛」である。
遺骨を焼いたらDNAは残らないが、髪の毛だったらたった一本でも完璧なDNAを残しておける。
さらにDNAをデータ化して生前の写真や音声、動画などと一緒にネット上にアップすればいつでもどこでも墓参りが出来るというのだ。
実に説得力もあり、魅力的な方法だと思う。
 
結局あまりうまくはいってないようだが、
個人的にはアリだと思う。
ただ、実際に死者のサイトやブログがそのままネット上に残っていて、
故人を慕っていたユーザーがたまにおとずれるという現象が自然発生的に生まれている。わざわざお寺に頼んでお金を払わなくても、ほとんど無料でネット上に実現できてしまっているともいえる。
アカウントの期限が切れたり、IDを削除されるという心配もあるが、
ウェブ魚拓なんてのもあるし、少なくとも何百万とか何十万もかけて仰々しくやるものでもない。
正直、ビジネスとしては儲からないだろう。
 
そういった自然発生的な供養の延長として、
twitterbotなんてのもアリなんじゃないかという気がしている。
ネット上にデータの蓄積されている人物であれば、
かつての発言を切り取ってランダムに表示させるだけで
なんだか生きているんだか死んでいるんだかわからない状況ができあがってしまう。
特にtwitter上の発言なんかは、「お腹空いた」とか「おやすみ〜」とか「これから仕事」とか、いつ誰が言っても違和感のないものが多いから、ネット上にデータがなくても生前の人となりをリサーチして作ることはできそうだ。
 
なんだったら、「故人bot作成いたします」みたいな看板を掲げてみようか。
プラスして、生前の写真を加工していろいろな風景と組み合わせたり、家族の集合写真、ペットとの写真なんかも作ることはできるし。
遺影というのは前々から準備しておくようなものではないので、実際に葬儀会社なんかではフォトショップによる合成を行っているという。
でも片手間のサービスでやっているのでクオリティはあまり高くないというのが現状だ。
ボロ儲けはできないだろうけど、こうしたもののニーズは確実にあるはず。
キレイにデコれば、携帯電話の待ち受け画面なんかにも使えるし。
 
だけどそれこそ「生者の納得」という観点に立てば、
そういった汎用性こそ儀式の荘厳さよりも求められてくるんじゃないだろうか。
 
 
 
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犬惑星 - 死して屍拾う者あり
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※「故人bot作成」「遺影のCG加工」など、本当にお受けします。
 
あと、冠婚葬祭に関する新書を書かせてくれる出版社も…
『ディズニー化する冠婚葬祭』なんてどうでしょうか。
なぜ人はディズニーで結婚式をあげたがるのか?
ゆくゆくは「ゆりかごから墓場まで」ディズニー化するんじゃないのかなどなど…
 
御用命は「犬山デザイン製作所」まで!

 
■犬山デザイン製作所
http://mt-dog.jugem.jp/