犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

小林大吾 『詩人の刻印』

 中原中也は朗読することを前提に詩を書いた。
 女たちは、目の前で朗々と不可解な言葉を並べ立てる小柄な男に最初のうちは微笑みを浮かべ、やがてあきれ果てたという。

 たしかに中原中也の詩集がいまだに文庫コーナーで平積みになっているのは、ソフト帽に羅紗マントを羽織った自意識過剰な美少年風のポートレートによるところが大きいだろう。しかし一方で中也がこだわった音響的な演出の部分を忘れてはならない。声に出して読んだ時のリズム感が、人々の言語中枢に心地よいビートを打ちつけているからこそ、100年近くも前の――それも当時の人々にとってすら難解であったダダ詩が僕らのハートに届くのだ。

 肉声に裏打ちされた言葉は、心拍数の増減を肉体に及ぼし、心臓を物理的に振動させて脳をシャッフルする。それはまるでグラスに注がれたアブサンのように、悪魔的な陶酔へ誘ってくれる。甘い角砂糖のような言葉と、度数の高いアルコール成分。「言語」には間違いなく陶酔が潜んでいる。
 

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 かつて「新宿スポークン・ワーズ・スラム」というイベントがあったそうだ。リアルタイムにはその存在を知らなかった。言葉と肉声を使ったパフォーマンスならば何でもござれの混沌としたバトルロワイヤルで、唄もあれば詩の朗読もあり、ヒップホップや演劇もあったという。それを審査員によってジャッジされ、勝敗が決まる。
 小林大吾はそんな「戦場」で、詩を武器に生き残った。年間グランド・チャンピオン大会では準優勝に輝いたという。
 
 深夜ラジオでそのトラックを耳にした瞬間、戦慄を覚えた。
 途切れることのない言葉のグルーヴに眼を閉じれば、まぶたの裏では活版印刷の鮮やかな色彩で輪郭線の明確なカートゥーンたちが白昼夢のように飛び跳ねる。ユーモアと悪意が優しさのオブラートに包まれて、こども風邪シロップのようにジワジワと肉体に作用する。キチガイのようでもあり賢者のようでもあり、言葉と言葉の間に意味を深く読み解けば「そんなもんないさ」と軽く鼻で笑われそうな先回りの恐怖を感じる。

 小林大吾はヒップホップと比較されがちだが、ヒップホップは良くも悪くも生モノであり、良くできたリリックほどその完成度はリアルタイムな刹那性に支えられている。ライブでなければ体験できない暴力的な衝撃が、おそらくヒップホップには必要で、ジブラやエミネムをCDで何度も聴くという行為は、なんだか英語のヒアリングのような反復学習の様相を呈してくる。それはもちろん、「反復に耐えない」という意味ではない。
 それに比べて小林大吾のトラックは、ドライフラワーや化石のようなものだ。「生」の片鱗は内包しながらも、どこか今を「生きていない」。かといって「今」とは無関係な時空を漂っているわけでもなく、そこにはやはり現在と地続で、そしてもちろん言葉そのものに生気が感じられないだとか死んでいると言いたいワケでもなく、ただ「生きていない」としか言いようがない。生きたまま解脱した仙人や即身仏のようでもあり、琥珀に閉じこめられた古代生物のようでもある。時おり手にとり、光にかざして眺めたくなる。彼は琥珀の中でだけ生きていて、光をかざしたその瞬間だけ心臓が鼓動するような、そういう生き物のような気がする。
 
 言語表現におけるひとつの頂点であることは間違いない。
 もちろん、頂点はペンタグラムのごとく複数在るとして……
 
小林大吾 『詩人の刻印』
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