犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

マンバ考③ 俄然アキバな、着ぐるみん登場☆

 人生における最初の義務は何かのふりをすること。次に大事な義務は、まだ、誰も知らない。
 
ベルベット・ゴールドマイン」 トッド・ヘインズ/大森さわこ・訳

 
 ここ数年、ストリート上に展開された一連のギャルファッションは「性的な身体の拒絶」と「身体性を拒絶するデコラティブさ」がキワだっていた。そして極めつけは着ぐるみに身を包んだマンバ集団、「着ぐるみん」の登場だ。彼女たちはディスカウント・ショップ『ドン・キホーテ』で購入した、着ぐるみ――というよりもパーティーグッズのかぶりものを着てセンター街で大暴れしているという。
 そして彼女たちはセンター街を半永久的な祝祭空間と解釈して「ハレとケ」の区別を無視したエピキュリアン的な生活を謳歌しているのだ。
 

 ドンキで試着したのが最初。「カレ氏来た時、着ぐるみだとカワイイじゃん☆」「地元ヨユーでしょ?!」とか。家ならそのまま寝ても温かいしね〜。(中略)まぁこれからの季節、さすがにあついから、とりあえず耳とシッポで☆ 寒くなったらまた着ぐるみみたいな〜。(みずき) 別冊egg『manba』Vol.1

 
 インドのヒジュラと呼ばれる両性具有者は、普段は被差別民として迫害され、石をもって追われる身だが、結婚・出産・祝祭・葬式などの非日常的なイベントでは「穢れ」を一身に背負う者として重宝がられ、どこの家庭でも歓迎される。マンバをヒジュラに例えるのは非常に飛躍しすぎだとも思うが、彼女らは被差別的な視線にさらされつつも「なんでもない日おめでとう!」という極めてアリス*1的な享楽の日々を送っている。柳田民俗学的にいうところの「ケ」の状況を「ハレ」に変換してしまう彼女たち独特の強引なパラダイム・シフトの概念が、逆に本来「ハレ」の空間であるべきアルバローザやクラブからの出入り禁止という祝祭空間からの阻害を余儀なくされるのも、むべなるかなというところだ*2
 
 そんな、着ぐるみを着て街を歩いたり、毎日ドンチャンさわぎをしたりと、かなりテンションの高そうなマンバだが、実はそんなこともない。
 

 渋谷でCHO→有名なゴリたん+りーたん+ゆーたん+ごーたん登場☆ てか4人ともテンション低メ(笑)。けど力抜けててイイカンジ♪

 
 と『manba』の記述にもあるように、毎日を祝祭空間で過ごしているわりにマンバやGUYのテンションは低い。ゴングロメイクを生み出した教祖的存在のブリテリにしても、≪メイクとは『ホントの自分を隠す道具』≫であると明言しているし、ブリテリと彼女を慕うヤマンバ黎明期の「ガングロ3兄弟with U」たちの趣味は、≪センターを通り過ぎる人をファッキン前で人間鑑賞してて(最高記録は20時間)≫とか、≪雨の日はふみっこんちでAV鑑賞&官能小説の朗読会三昧♪≫という非常に地味なものであった。
 はっきり言ってこんな余暇の過ごし方、オタクやサブカル者が実践すれば「キモ〜い」と言われかねない。しかし、このオタク臭、地味な感じというのが宮台真司が言うところの「イケてなさ」こそがマンバ文化をコギャル文化から切り離した原動力なのではないかと思う。
 そして、それを裏付けるかのように、『manba』の中にこんなアンケート結果がある。
 

「マンバ前は何系?」
 1位 ギャル  61.0%(61人)
 2位 アキバ系  7.0%( 7人)
 3位 お姉系   6.0%( 6人)

 
数値上のレトリックでしかないが、アキバ系が第2位にランクインされていることの意味は大きい。もしかすると反感を買ってしまうかもしれないと思いつつ、あえて書いてしまう。マンバもゴスロリも、「内面の貧困さを覆い隠すデコラティブ」という一点ではまったく同じ穴のムジナなのだ。つまりそれは、アキバ系における2次元キャラが持つ「装飾の過剰さ」にこそ彼女たちの本質があるという僕の勝手な解釈である。
 
 土方巽は身体を≪空駄(カラダ)≫*3と表記した。白塗りのカラッポな身体にダンスという精霊を宿し、欠落した部分を補完する……先日、暗黒舞踊を観て感じたのはそんな代償行為としての身体酷使だった。売春も身体改造もファッションも、直接的に身体にリンクする。まずはカラッポな身体という容器があって、そこに装飾華美なフリルやアクセやその他もろもろを詰め込んでいる。
 削除することは難しいが、付け加えることは容易だ。RPGのキャラに複数のアイテムを装備して最強に近づけば近づくほど選択肢は狭まり、ストーリー終盤ではほとんど個性が消滅する。センスが冴えれば選択肢が減るという奇妙なスパイラル。あるいは「猫耳・しっぽ・大きな鈴・大きな手足・メイド服」というデ・ジ・キャラットの装飾を見ても明らかなように、アキバ系が二次元世界でたどった「足し算式」の様式美がマンバやゴスロリには流入している。 自分ではない誰か、他の誰かになるための消去法的な選択肢が「高野友梨ビューティークリニック」的なダイエットやプチ整形だとしたら、積極的なメタモルフォーゼこそマンバであり、ゴスロリなのだ。白塗りも黒塗りも、皮膚の表面の凹凸を消滅させる手段でしかない。そしてファッションとは個性ではなく、平均化への欲動なのだ。
 
 そして本題の「着ぐるみん」に話が戻る。着ぐるみこそ、身体の平均化にはうってつけのアイテムなのだ。柔らかなフリルがカラダのラインを隠すように、着ぐるみも「身体性の拒否」には都合がいい。歪な身体を覆い、個性を消滅させる。黒塗りメイクによって理想の顔面を獲得し、なおかつ外界との接触を試みる……仮面が彼女たちをストリートへといざなっている。
 
 何度も繰り返すが、マンバはコギャル文化の延長線上ではなない。むしろアキバ系のアクティブな変種だ。彼女たちは幼稚園児がセーラームーンの「ごっこ遊び」をするように、あるいはコミケセーラームーンのコスプレをする代わりに、コギャルに擬態していたのだ。そしてストリートに居場所を見つけた。90年代にキティが頭に飾っていたハイビスカスの花こそが彼女たちの崇拝対象であり、金銭的に裕福でない彼女たちにとってブランド品なんてどうでも良かった。だからこそ90年代のイコンとして選ばれたのはアルバローザだったのだ。彼女たちは決してコギャルなんかではないから、コギャル文化が衰退してもなおその場に居続けた。
 
「最も危険な行為とはひとつの場所にじっととどまり続けることなのだ」とバロウズギンズバーグに宛てた手紙で書いたそのままの暮らしを、彼女たちは実践している。マンバもまたゴスロリと同じく「保守反動」なのだ。

*1:もちろんルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』。ちなみに東京ディズニーランドの『クィーンオブハートのバンケットホール』というレストランには、「アンバースデイ・ケーキ」というメニューがある。これは「誕生日じゃない日、おめでとう!」という意味。ちなみにこれを誕生日の日に注文すると「バースデイ・ケーキ」になる

*2:シブヤ系というのは実はカマタ系で、東横線に乗って京浜地区からやってくるヤンキーどもの巣窟こそ聖地シブヤであるという説がある。彼らにとってシブヤは通学路であり、日常の一場面。ゆえに一見祝祭空間の輝きに満ちていながら、なんだかダラダラしている。その辺が消費の伸び悩む要因かと思われる。逆に原宿は週に1度とか月に1度という地方在住者が気合いを入れてやってきたり、修学旅行生が多いので、毎日が祝祭空間だとしてもそこにやってくる人々は毎日入れ替わる率が高い。ツチネコ氏ご推薦の、『シブヤ系 対 カマタ系』 馬場弘信を参照

*3:なんとなくSDガンダム『SD戦国伝』シリーズの頑駄無を思わせる。頑固の「頑」、駄目の「駄」、虚無の「無」。