犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

『ライフ・イズ・ビューティフル』背徳の微笑み

 ロベルト・ベニーニ監督の「ライフ・イズ・ビューティフル」は実に良い映画だった。血も涙もない僕ですら思わず目頭が熱くなった。とはいえこの映画、そう容易く泣かせてくれるような<感動巨編>なんかではない。純然たるコメディであり、強いて言えばコメディアンがやってはならない荒技を用いた非合法コメディである。
 
 前半は男女の恋、後半は親子の愛、とテーマは明確に提示されているが、前半と後半のコントラストはただ単にシチュエーションが違うだけ。一貫性のある状況コントとして見るのが妥当なところだろう。ホロコーストの場面など密室コント的な閉塞感がまたいい味を出している。
 
 そういえばある友人はこんなことを言っていた。
「みんなホロコーストの場面が良かったって言うじゃないですか。でもおいらは違うんですよ。後で奥さんになる女の人を主人公が口説く場面があるでしょう。あそこで空から鍵が降ってきた場面に、“やられた!”って思いましたね。偶然が重なってどんどん有り得ない事が実現していく、冴えない中年男によってみんなが魔法にかけられていくっていう、あの場面が……」
 
 あらゆる<笑い>は<嘲笑>である。芸人は人に媚びを売り、憐れまれることによって笑いをとる。ボケはツッコミに嘲笑され、ツッコミは観客によって嘲笑される。たとえ観客をののしることによって成立する漫才があったとしても、それは観客の寛容さによって許されているに過ぎない。この世に人々が信じるような純粋で幸福な心からの笑いなど、存在しないのだ、などと言ったら言い過ぎだろうか?
 たとえば俺達は小動物を愛す。モコモコの仔犬がはしゃぎすぎたあまり芝生で転ぶのを見て思わず笑みがこぼれおちる。「ああ、バカだなあ」という軽い気持ちで一笑に付す。「バカはしょうがねえなあ、バカは」という憐れみゆえ、心おきなく笑うことが出来る。あるいはあたたかな手を差しのべてくれた紳士に対して少女が微笑む。それは自分の色香に酔って陥落した男への嘲笑かも知れない。愛想笑いというのも同じ様な物だ。こちらは気にくわない相手に対してつき合いで笑ってやる、という気位が無くはない。笑いとは飽くなき階級闘争である。媚びる側と憐れむ側のギブ・アンド・テイク。人間はヒトに憐れみを感じるときにこそ笑うのだ。
 
 一方、人間はヒトを憐れんで泣いたりはしない。悔しさ故に泣くのだ。南アフリカの惨状やカンボジア難民、北朝鮮の欠食児童を「可愛そうだ」と言って泣く者があれば、それは間違っている。そういう時こそ笑うべきだ。客観化して憐れむことができるのならば、むしろそれは笑いに転嫁されるべき感情なのである。僕は他人に対する同情から泣いたことなど一度もない。真っ白な灰になって力つきた明日のジョーにも、雪の降る夜教会で朽ち果てたネロとパトラッシュにも、悔しいからこそ涙を流したのだ。幼稚園でお漏らしをした児童が泣くのだって、お漏らしをしたことが悲しいのではない。みんなが自分を憐れむから悔しいのだ。笑顔すら噛み殺して生き続ける貧しい生活、あるいは立ち去る恋人に対して「畜生、いつか見てろよ」と、我が身の不甲斐なさや愛のなさを痛感するときにのみ、ヒトは涙ぐむものなのだというのが幼い頃からの僕の持論だった。
 ヒトは嘲笑によって自らを高め、悔しさ故に涙を流す。階級闘争とはいかに他人を貶め、涙を流さぬかという戦いである。そのためヒトは互いを嘲り、奪い合う。その証拠に太宰治の小説はどんなに憐れであろうとコメディにしかならない。涙を流すのは、太宰と読者の心がシンクロしたその瞬間のみなのだ。つまり、読者が笑われる側に立つ時である。涙は弱者を救済するが決して<強さ>を与えてはくれない。涙すら笑えるようになった時、はじめてそれを獲得することができるだろう。 葬式なんかで親類縁者が泣いているのを見て思わず笑ってしまうのはきっと、客観的に見て故人や遺族が憐れに見えるからだろう。憐れであるからこそ笑ってしまう。自分は泣くことのない第三者だからだ。遺族は嘘泣きでない限り、悔しがっているはずだ。だから涙が流れる。もっと生きて欲しかった、さぞかし心残りがあるだろうにとか、あるいはなんで相続税こんなに高いんだよお、とか……
 
 前置きが長くなった。というより長過ぎ。
 題名は忘れたが、たしか邦画だった。コメディアンの父を持つ少女に対して誰かが言う。「お前の親父は笑われてるんじゃない。笑わせてやってるんだ」と。しかしココに笑わせるためには笑われるしかないというパラドクスが生じる。芸人はボロを出してはならない。傷つきながらその傷を隠しおおさねばならない。コメディに涙は禁物なのだ。涙――それは笑われ続けたコメディアンにとって究極の復讐である。なぜなら、あからさまに悲しいシーンを想定してそこに笑いを盛り込めば、笑いというものが本来もっている残酷性を白日のもとに曝すことに成り兼ねない。どんなバカでも気づくだろう。俺達は弱者を嘲笑っていたのだということに。
 映画「ライフ・イズ・ビューティフル」が持つ毒気とはまさにそれである。観客は涙を流しながら笑う。本当にこんな悲しい場面で笑っていいのだろうかという疑問と罪悪感で心臓をえぐられながら。

 父子がナチス強制収容所行きの列車に乗せられる時に、父親が子供に「これから旅行に行くんだ、楽しいだろ」みたいなつくり話をするシーンは、僕がめざしている「笑い」の境地に近いものがありますね。客にしてみたら、笑っていいのか、泣いていいのかわからんとこ。笑いと泣きの比率が6対4みたいな微妙なバランスですよ。
 
松本人志/『シネマ坊主』 第一回 ライフ・イズ・ビューティフル

こないだ放送したもののなかだと、5人でやった「悲しい忘年会」というのがあった。あれはいいね。 サラリーマンの忘年会のコントだけど、死んだ同僚の父親が、息子に代わって忘年会に参加するところから話が始まる。父親役は加藤さんで、はまり役だ。それで、みんなで馬鹿な格好してワーッと盛り上がっている時に、ふっと息子が亡くなった寂しさに気づく。あのコントは、ただバカバカしいだけじゃなくて、ちょっと深いものがあって、おもしろいと思う。
 
志村けん/『変なおじさんリターンズ』 第四回 昔の「ドリフ大爆笑」は恥ずかしい

 笑いの巨匠達は、笑いの本質がいかなる物であるかを暴露したくてうずうずしている。「ほうら、コレがお前達が今まで嘲笑っていた物の正体だ。どうだ、これでも笑えるか? ほれ、おかしいだろう。おかしくて堪らないだろう!!」と、真実はいつも人をシラけさせる。それ故、笑いの巨匠達はなかなかそれを実行に移すことができない。タネを明かし、トリック・スターとして一時期輝かしい富と名誉を手に入れることが出来たとしても、それはコメディという手法を破綻させることに成り兼ねない。魔法が解けた後、残るのは禿げた中年男。メイクを落としたピエロの目にはうっすらと濁った涙が……誰もそれを美しいとは思わないだろう。それをやってしまったところがロベルト・ベニーニの器のでかさであり、やはり映画はこうでなくちゃという、反社会性を盛り込んだ彼は<天才>である。
 
 とりあえず『ライフ・イズ・ビューティフル』は志ある人間には悔し涙を流させずにはおかない心憎い映画なのである。当初、単館上映を予定されていたこの作品が口コミによって評判が広がりついには全国公開になったというのも小気味よいエピソードではないか。