犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

エスケープ・ベロシティ

人間は群衆動物であるからこそ、その潜在願望では、深くも孤独にあこがれるということではないのか。
江戸川乱歩コレクション「群衆の中のロビンソン」

 ヘッドフォンを着けて、列車の車窓を流れる夜景を観ているとガラスの向こうはアクアリウムの水槽かなにかの様に、なんだか別世界での出来事のようで自分は他人で、他人は無機的なオブジェに思えてくる……
 
 こんな真夜中に独りぼっちでいると、この世界から怖いものなんてひとつもなくなってしまったような錯覚に陥る。あらゆる不愉快な出来事を許せそうな気がする。そういえば月には魔力があると腹の肉をダブつかせた博物学者は言っていた。確かに夜だとブスでも可愛く見えるし、酔っぱらってゲロを吐いてるオヤジすら愛おしく思える。それはただ単に酒に酔っていたり、眠かったりするせいなのかも知れないけれど。
 
 この世に醜いものなんてひとつも無い。オヤジの吐き出したゲロだってジェリービーンズの輝きを帯びている。ボクは太陽の光を反射して輝くダイヤより、闇の中でみずから光を発するネオンや蛍光灯の方が好きだ。行くあてのない野犬生活。ボクには帰る家がない。半分ホームレスのような路上生活をしていると、渋谷という街が一番居心地がいいのだ。深夜0時を過ぎても、こんなにたくさん仲間が居る。
 この街じゃ、誰もが平等にアカの他人で、生活臭というモノがほとんど感じられない。たとえば新宿なら中国マフィアやホームレスや、街の至る所にそこに住む人々の生活臭が染みついている。これが千葉だったり、その他の地方都市なら、今頃ほとんど人影もなく店も閉じ、ボクは途方に暮れるだろう。しかし渋谷では、疲労や睡魔によってバケの皮が剥がされる寸前のギリギリの緊張感と、はかない虚勢ややりきれない脱力感によってプラスティックな雰囲気が漂っている。
 
 いつまでも果てなく、山手線に乗ってグルグルと周り続け、やがてたどり着く街の喧噪……
 独りになりたいけれど、本当に孤独なのは寂びし過ぎる。いつも誰か隣にいて、ほんの少し勇気を出して声をかければ友達になれそうな。そんな<可能性>に埋もれて眠りたいのだ。ただひたすら<可能性>のみによって維持される儚い<希望>。
 例えば駅前の閉じたシャッターの前でギターを弾いてる少年。漫画喫茶で少女マンガを読みふける終電に乗り遅れたOL。ハチ公前で善意をふりまく新興宗教の信者。みんな平等にアカの他人だ。
 
  昼間は街を歩き回ったり図書館に通ったりして、夜はカラオケ・ボックスや漫画喫茶を寝床代わりに渡り歩いて2、3日過ごす。この街じゃ、金さえあればどうにかなる。なんだ、家なんて必要ないじゃんという気にもなってくる。疲労は蓄積され、財布は薄っぺらになってゆく一方だけど、随分と気楽なモノで、初夏になれば、路上で寝ることだってできる。 ボクにとっては街の至るところが住処になる。公園のベンチに缶コーヒー一杯で何時間でも過ごせるし、本が読みたければ図書館へ行く。電気屋のディスプレイでプレステやって、デパートの地下で試食する。HMV前の階段で最新ヒットナンバーをBGMに道行く若者を観察してたりすると飽きないものだ。
 
 逆に<家>の喪失は、<家>のようなものを街の至るところに複数持つのとよく似ているのかも知れない。帰属意識は希薄になって、近所の本屋じゃエロ本は買えないというような羞恥心もまったくなくなる。路上でオナニーだってできそうだ。その代わり、無条件に自分を受け入れてくれるような居場所はなくなって、自分がどこかに<居る>ためには時間単位で料金がカウントされてゆくようになるのだ。特に寒い冬の空の下、しみじみ感じる。