犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ディズニー供養

 
昨今の葬儀ブーム…
あるいは「新しい葬儀論ブーム」に乗り遅れてしまった。
2、3年前から目を付けていたのになあと、悔しい気もするが、
新書ブームの時ですら権威のない僕ごときが企画しても通らなかったのだから、
コンビニ本の企画と一緒に出したところで通るはずもないのだ。
 
少子高齢化でおそらく「死」は身近になった。
老人にとってはもともと「自分の死=葬儀」は身近な話題だし、
若者にとっても貧しい老後しかイメージできない現在、
かつて輝かしいイメージを帯びていた「未来」や「将来」といった単語すら「死」に直結しはじめている。
電車が人身事故で止まったりするたび、無感動な自分にかえってギョッとする。
 
こないだテレビで健康寿命という言葉が紹介されていた。
日本は平均寿命は高いが、それは介護によって延命されているからに過ぎないというのだ。
いろんな不安を抱えつつも、
我々は今、死を畏れながら同時に待ちわびている。
数十年に一度おとずれる墓や葬儀に関する論争やブームの背景には、
「死への恐怖と期待」が入り乱れたアンビバレントな感情が隠されているような気がする。
死ぬのは怖いけど、ちょっと楽しみだったり、
痛いのはいやだけど、死こそ最後の安住の地であるような気がしたり、
不明瞭だからこそ、人間は「死」に様々な意味づけをしてしまうものなのだ。

 
うちの父親なんかは、
いまだに大きな仏壇と立派な墓にアイデンティティを抱いている。
 
一方、離婚した母親は、とある新興宗教を脱退してからしばらく宗教を渡り歩いていたが、ここ最近はそういったものから遠ざかっている。
かつては何十万もする新興宗教の仏壇を次々に買い換えてそれがトラブルの原因となったが、今ではすっかり熱も冷め、
たまに自宅を訪ねてゆくと、慕っていた祖母の写真とお供えのお菓子や果物、
それを囲むように僕のあげた韓国土産やぬいぐるみなんかが飾られている。
あるいは、ぼくのデザインした着ぐるみキャラクターの写真なんかも一緒に置かれていて、やや混沌とした様相を呈している。
その、宗教を背景としない独特の祭壇は、
かつて新聞記事から切り抜いた少女の写真を
ゴシック調の家具や雑貨で飾って祭壇を作っていた
ヘンリー・ダーガーのようだ。
 
しかし個人的には、従来の「葬式仏教」に固執する父よりも、
自分にとって愛着のある品々を集めて作った母親の祭壇こそ、
供養や弔いの方法としては「納得」できてしまう。
 

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かつてディズニーで働いていた頃、
ゲストとお話しをしていると「実は今日は死んだ子の命日で…」みたいな話に遭遇することがたまにあった。
命日でないまでも、おそらく亡くなった身内がディズニー好きで、その想い出とともにおとずれるという人は少なくなかっただろう。
死んでないまでも、よく子供と来てたんだけど、子供が成人して巣立ってからは夫婦で来てますなんて話だったらかなり多かった。
 
「故人を偲ぶ」という意味では、よっぽど墓参りよりも供養になるような気がする。
何より、供養というものが「死者」のためではなく「生者」のためのものであるという身も蓋もない「根源」に立ち返るなら、
特に思い入れもない人間を法要に呼び出して、
退屈な読経を聞かせてうんざりされるよりも、
故人を慕う人間だけが想い出と共に楽しい一日を過ごせる方がよっぽど意味がある。
 
かつて諸々のトラブルで絶版になった『最後のパレード』にも掲載され、
ディズニーをネタにしたセミナーなんかでもよく語られる話がある。
有名な話だし、あらためて語るのも面倒なのでリンクで済ますが↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313704258?fr=rcmd_chie_detail
これなんかも、「ディズニー供養」とでも呼べる好事例だろう。
一部では都市伝説とも言われているが、
顧客満足のためにこれくらいの裁量権は現場にあるんですよという話なので、
おそらく実話だろう。
 

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冠婚葬祭というのは、仕きたりばかりが先走ってオカルト化してしまっているけれど、
要は「みんなが納得するための儀式」である。
葬儀に限らず、結婚式なんかもけっこう興味深い儀式がある。
 
特にブライダル産業を見ていると、「新しいジンクス」どころか「新しい宗教」が生まれつつあるような、そんな息吹を感じる。
オプションで付いてくる新郎新婦が生まれてきた時の体重と同じ重さのテディベアとか、二人で光る液体をそそいでハート型を作る儀式だの、キャンドルサービスの代わりにアロマオイルみたいなのに蛍光塗料を浸した花びらを散らす儀式だの、よく考えるなあと感心してしまう。
さながら、80年代頃に流行った『マイバースデー』などのおまじないブックみたいだ。 
葬儀の仕方は宗派によってそれぞれ違っても、
各宗派の僧侶の話を聞けばけっこう「納得」させられてしまう。
仏教の場合、四十九日というのは共通しているが、他の宗派が三途の川を渡って成仏する過程をあらわしているのに対して、たしか浄土宗は仏のもとで修行する日数みたいな解釈だったと思う。
 

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よくディズニーランドをバカにして「ハリボテ」じゃないかという人がいる。
そういう人にわざわざ説明するのも時間の無駄なので、その場ではニコニコしながら「そうだね〜」などとお茶を濁すが、それを言ったら宗教にしろ社会生活にしろ、全部ハリボテじゃねぇかと思ってしまう。
人間というのは、多かれ少なかれそのハリボテをありがたがって生きているのだ。
 
冠婚葬祭というのも、古いハリボテの説得力が薄れて、
もっと説得力の強いハリボテが出てきたときに少しずつシフトしてゆくものだと思う。
 
ただ、新しいものが生まれる時にはたいてい、その説得力や正当性を強調するために古いものが引っ張り出されてくる。
たとえばこないだ電車の中で見た広告には簡易仏壇が紹介され、柳田邦男が引用されていた。
かつて先祖の霊を祀る祭壇は「魂棚」と呼ばれ、それは野に咲く花が飾られるだけの質素なものだったというのだ。
だから簡易仏壇こそ、本来の供養のカタチなのだという。
 
あるいは先日、創価学会友人葬に出席してきた。
そこで語られるのは、釈迦や日蓮は葬式でお経を唱えるヒマがあったら修行しなさいというようなことを言ったらしい。
だから僧侶が読経する葬式仏教というのは間違っていて、故人と親交のあった友人達で弔ってやることこそが、仏教本来のやり方に近いのだという。
 
まあ、なるほどなあと思う。
ただ、やはりここでも重要なのは「納得」だ。
その価値観を共有していない人間にとっては、どの宗派のどんなやり方も疎外感を抱く要因になってしまう。
友人葬なんかも、信者でない親戚はちょっと戸惑っていた。
 

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先日、マンション型の霊園に行く機会があった。
ICカードをパネルにかざすとベルトコンベア式に遺骨が移動してきて、
パカッと墓石型のフレームに収まるという仕組みだった。
さらにオプションで生前の写真がスライドショーのように移り変わる。
祭壇にはいつでも綺麗な花が飾られ、常にお坊さんも常駐している。
さながら多くの死者達との集合住宅といった感じだから、
「これなら寂しくないなあ…」などと思ってしまった。
 
冬は暖かく、夏は涼しい。さらに雨などの天候も関係ない。
お墓参りする側にとっても、実に恵まれた環境だった。
 
考えてみると、従来の墓ではメモリーできるデータ量が少なすぎる。
墓石に刻めるのは「誰がいつ死んだのか」くらいだし、
卒塔婆は「誰がいつ来て金を払っていったのか」くらいしかわからない。
お供えから個人が生前好きだったものは偲べるが、
先祖代々の墓だったりすると、そのささやかな差異も薄まってゆく傾向にある。
 
それにくらべると、ささいなことではあるけれど
お墓にデジタルデータの肖像画が飾られているだけで印象はだいぶ違う。
故人への思い、感情移入の深さも変わってくるだろう。
 
まだインターネットが登場したばかりの頃、
インターネット上にお墓を作ろうというプロジェクトがあった。
ちょうどその頃に出版された『サイバーストーン』という本があって、
これはなかなか名著だったと思う。
 
巣鴨に寺院を持つ住職の書いた本なのだけど、
これからの時代、遺骨を焼いて墓を建てるというスタイルがそもそも間違っているのだという話を延々と書いている。
なぜ墓を建てるのかといえば、故人にまつわる何かを残しておきたいからだ。
だったら、遺骨では役不足だろうというのだ。
代わりに提唱するのが「髪の毛」である。
遺骨を焼いたらDNAは残らないが、髪の毛だったらたった一本でも完璧なDNAを残しておける。
さらにDNAをデータ化して生前の写真や音声、動画などと一緒にネット上にアップすればいつでもどこでも墓参りが出来るというのだ。
実に説得力もあり、魅力的な方法だと思う。
 
結局あまりうまくはいってないようだが、
個人的にはアリだと思う。
ただ、実際に死者のサイトやブログがそのままネット上に残っていて、
故人を慕っていたユーザーがたまにおとずれるという現象が自然発生的に生まれている。わざわざお寺に頼んでお金を払わなくても、ほとんど無料でネット上に実現できてしまっているともいえる。
アカウントの期限が切れたり、IDを削除されるという心配もあるが、
ウェブ魚拓なんてのもあるし、少なくとも何百万とか何十万もかけて仰々しくやるものでもない。
正直、ビジネスとしては儲からないだろう。
 
そういった自然発生的な供養の延長として、
twitterbotなんてのもアリなんじゃないかという気がしている。
ネット上にデータの蓄積されている人物であれば、
かつての発言を切り取ってランダムに表示させるだけで
なんだか生きているんだか死んでいるんだかわからない状況ができあがってしまう。
特にtwitter上の発言なんかは、「お腹空いた」とか「おやすみ〜」とか「これから仕事」とか、いつ誰が言っても違和感のないものが多いから、ネット上にデータがなくても生前の人となりをリサーチして作ることはできそうだ。
 
なんだったら、「故人bot作成いたします」みたいな看板を掲げてみようか。
プラスして、生前の写真を加工していろいろな風景と組み合わせたり、家族の集合写真、ペットとの写真なんかも作ることはできるし。
遺影というのは前々から準備しておくようなものではないので、実際に葬儀会社なんかではフォトショップによる合成を行っているという。
でも片手間のサービスでやっているのでクオリティはあまり高くないというのが現状だ。
ボロ儲けはできないだろうけど、こうしたもののニーズは確実にあるはず。
キレイにデコれば、携帯電話の待ち受け画面なんかにも使えるし。
 
だけどそれこそ「生者の納得」という観点に立てば、
そういった汎用性こそ儀式の荘厳さよりも求められてくるんじゃないだろうか。
 
 
 
■関連しそうな過去の記事
 
犬惑星 - 死して屍拾う者あり
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20060802/
 
犬惑星 - 本当はあまり怖くないポニョの都市伝説
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080805
 

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※「故人bot作成」「遺影のCG加工」など、本当にお受けします。
 
あと、冠婚葬祭に関する新書を書かせてくれる出版社も…
『ディズニー化する冠婚葬祭』なんてどうでしょうか。
なぜ人はディズニーで結婚式をあげたがるのか?
ゆくゆくは「ゆりかごから墓場まで」ディズニー化するんじゃないのかなどなど…
 
御用命は「犬山デザイン製作所」まで!

 
■犬山デザイン製作所
http://mt-dog.jugem.jp/

『twilog』はじめました

 
http://twilog.org/dogplanet/nomen
 
最近、ブログはあまり更新していませんが、
プライベートなことは、こちらでつぶやいています。
 
気が向いたら、こっちも長文更新していこうとは思っていますが、
あきらかにニーズがないのと波及効果がないので、ちょっと疎遠になってるかも。
 
◆仕事関係のブログはこちら
http://mt-dog.jugem.jp/

ポニョまとめ

 
2月5日に『崖の上のポニョ』がテレビ初登場ということなので、
過去に書いたポニョ関連の記事をまとめてみた。

ファンの期待を裏切ったうえで、さらに楽しませるというのが
クリエイターにとって究極の願望だと思う。
 
そういう意味で、ポニョはエヴァンゲリオンに近い。
エヴァもTVと旧劇場版て、
最終的には「萌えたくていったのに、萎えさせるんじゃねえよ!」って話だし。
 
その延長で、ポニョ批判なんて結局、
「オレはそんなの求めてませんから!」って声でしかなかったわけだ。
 
恋人が毛糸でセーターを編んでいたから、
てっきり自分へのプレゼントだと思ってワウワクしてたら、
全然違う男へのプレゼントだった……みたいな?
 
タイトルのせいか検索エンジンから「本当は怖いポニョの都市伝説」に行き着いて、
それだけ読んで憤慨して帰って行く人が多いんですけど、
個人的なオススメは「ヤンキー回帰としてのポニョ」です。
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080817
 

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リアルライブ版『本当は怖いポニョの都市伝説』
http://npn.co.jp/article/detail/00885423/
 
本当は怖いポニョの都市伝説
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080803
 
本当はあまり怖くないポニョの都市伝説
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080805
 
崖の上のポニョ
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080816
 
ヤンキー回帰としてのポニョ
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080817
 
ポニョと漱石
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080818
 
ポニョとルナティック
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080819
 
オレはポニョが好きだ
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080914
 
ポニョの正体はユメナマコ?
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080925
 
ポニョと漱石、その後
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20081027
 

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◆追記2010.02.03
 
ひさびさにポニョについて考えてしまった。
 
崖の上のポニョ』が気持ち悪いと言われるひとつの要因。
それは、宮崎駿と世間一般の「家族観」が乖離しているせいかも知れない。
 
人は現実の人間関係が類型化できるもんじゃないとわかっていながら、
フィクションの中には「無条件に優しい母親」だとか「父の背中を見て育つ息子」みたいな幻想を求めてしまう。
 
しかし、宮崎駿はそんな期待に応えようとはしない。
たとえ血が繋がっていとうとも、母や子というのは結局ひとりひとりの人間で、自分の思い通りになんてならない。
それぞれにエゴがあり、好き勝手に生きている。
子供がだっこして欲しいとき、だっこしてくれない母親だっている。
そんな当たり前のことをアニメで表現しただけなのだ。
 
でも、そこが気持ち悪いんだろうな。
夢見るつもりで映画館に行ったら、現実を突きつけられてしまった。
そりゃまあ、怒るのも仕方ない。
 
でも、「母親だってひとりの人間なんだ」みたいな部分に、子育てに追われ疲れかけている母親なんかは癒されるのかも知れない。
 
そういえば小学校低学年の頃、
担任の教師を半分小馬鹿にしてクラス全員で悪ふざけしていたら、
「先生だって人間なのよ!」みたいに激怒されたことがあった。
聖人君子みたいに何でもかんでも許せるわけじゃないのだと、
そういうような意味だったのだろう。
 
ちょっと困ったものを見せつけられてしまった感じは似ている。

きぐるみ唐獅子牡丹

 
◆地元キャラ公募で市民投票断トツ1位の「キンタローマン」が市の審査で12位のキャラに敗れる…南足柄市
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1379269.html
 
 みうらじゅんの「ゆるキャラ」の定義ってたしか、地方自治体や町内会のオヤジたちが酒に酔ったいきおいで「いいじゃん、いいじゃん!」みたいに盛り上がったあげくできあがってしまったマスコットキャラとかって感じだったはず。つまりその背景には「権力」と「政治力」が潜んでいるわけだ。
 そう考えると、このジャッジは至極当然の成り行き。
 
 さらに運営する側からすれば、特撮ヒーローはゆるキャラに比べて何もかも難しい。
 コスチュームに凝れば着ぐるみよりコストはかさむし、アクションのできる人材も必要。
 ショーを設定するなら音響やその他の機材、敵役だって必要だろうし、本人がしゃべるのか声をあてるのか、あるいは司会進行のお姉さんが必要になるかも知れない…
 デザイン費を安くおさえるための公募だってのに、どう考えたってそんな予算は組めないだろう。
 そもそも、そこまで覚悟があるなら最初から公募などせず、とことんプロフェッショナルと話を詰めて作り上げるだろうに。
 
 超神ネイガーのようなクオリティは損得勘定を越えたスタッフの熱意があってこそ実現したものだし、お役所中心では無理な気がする。
 最初の動機の部分で、「頼まれなくてもやってやるぜ!」という勢いがないと…。
 

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 あと、人気投票があまり有効でないことは90年代のキャラクターバブルを省みてもわかるはず。
 かつてキャラクターの経済波及効果が取りざたされた時、キティちゃんやピカチュウに便乗しようとネット上には「人気ランキング1位のキャラは商品化されます」みたいな公募サイトがたくさん現れた。
 で、結局、そんな中から誕生した人気キャラは一匹もいない。
 
 実は僕のつくったスパンキーも某社のキャラクター発掘プロジェクトみたいなのにノミネートしてもらったり、自称プロデューサーみたいな人が世話してやろうみたいな話があったりもした。
 しかし常に、「まずは人気投票で」みたいな話だった。
 知り合いのプロデューサー氏からも、「そんな得体の知れない着ぐるみで街を歩いたって誰も相手にしないよ。まずは着ぐるみは封印して、俺のサイトでランキング1位を獲って…」みたいなこを言われた。
 
 今でこそキャラクターは「選ばれるモノ」ではなく「育てるモノ」という認識が広まってきたけど、当時はとにかく「数撃ちゃ当たる」的な発想しかなかった。
 しかし、実は当時からヒットするキャラクターというのはどれも企業の資本投入によって育てられたものばかりだったのだ。
 キティもそうだし、ピカチュウだってそうだ。
 キティは売れない時期を経て、テコ入れしてブレイクした。
 ピカチュウは当初、数いるポケモンの中の一匹だったのがひときわ人気が高いので、出版社が目を付けてマンガの主人公に起用したのが切っ掛けだという。
 その後、アニメ化の際も主役扱いとなって一気に人気は大爆発する。
 サンエックスだって、こうした競争の中で地道に勢力を伸ばしてきたからこそ、今のリラックマ・ブームにこぎつけたわけだ。
 資本がないなら、個人や小さな自治体はその分、手間ヒマをかけて対抗するしかない。
 
 キャラクターというのは芸能タレントと一緒で、政治力と資本がモノを言う。
 オーディション番組というのは「発掘」という側面ばかりスポットを当てられるが、もっと重要なのは原石を見つけた後の磨き方の方だ。
 つまり、プロダクションがいかに育てるかという方が大きく影響する。
 ジャニーズ事務所だって、デビュー当時はパッとしなかったSMAPや嵐も一流に育て上げた。それ以前に、ジャニーズJr.で充分にしごかれているので、その辺の素人とはかなり違っている。
 
「アダチン」にしろ「やわらか戦車」にしろ、ネットから口コミでブレイクを装ってるけど、思いっきり広告代理店みたいなの噛んでいるわけだし、今でこそ「せんとくんカワイイ〜」みたいに通ぶってる人たちは、彼の出自を完全に忘れている。
 
 実はせんとくん騒動の時も、今回と同じで「権力者」に対する反感があったはずだ。
「権力者が市民の意見も聞かずに勝手にこんな変なキャラ作りやがって!」という怒りが、いつのまにかせんとくんの姿がテレビでしょっちゅう流れるようになって親近感が芽生えると、権力者への怒りはどこかへ消え去り、まるで問題が「可愛いか? 可愛くないか?」論争みたいな方向へすり替えられてしまった。
 そりゃ、可愛いか否かの判断は個人の感性によるところだから、あれを可愛いと感じる人がいてもおかしくはない。*1
 今となってはせんとくんを支持する層ってまるで革新派というか、「せんとくんの良さがわかる私ってステキ☆」みたいなサブカル女の自己陶酔装置に成り下がっている。
 はっきり言ってこんなのポピュリズム以外の何ものでもないと思うのだが…。
 普通、あれだけの反感を買った場合、せんとくん陣営に政治力が無ければ、とっくに潰されていたに違いない。
 っていうか、ひこにゃんは確かに可愛いけど、あれだってバックボーンは彦根藩ですよ。
 かつては日本を牛耳ってた黒幕ですから。
 どれだけの資本投下があったことやら…*2
 
 それに対して、人気投票で選ばれたマントくんの健闘ぶりはなかなかのものだと思う。
 正直、僕は人気投票で選ばれた程度じゃ太刀打ちできないと思っていた。
 しかし、選ばれた後もきちんと育てた人たちがいたからこそ、フィッツのCMでその雄姿が拝めたりするわけだ。
 

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 一方、僕の作ったキャラというのは「ゆるくない」とよく言われる。
 そのおかげで、今回のゆるキャラブームにもあまり乗り切れていない。
 声が掛かれば便乗するけど、ネットの口コミで広がるような要素はひとつもない。
 ネタとしては面白くもなんともないだろう。
 なんせ、王道の可愛さだから。
 
 しかしこれには、それなりの戦略がある。
 こちとら彦根や奈良のような圧倒的な「政治力」を持ち合わせていないので、「可愛さ」という暴力装置によってそれに抗うしかないのだ。
 
 はっきり言って、作った当初は360度、敵だらけという修羅場の中で産声をあげたキャラばかりだ。
 スパンキーの頃は着ぐるみを悪用した犯罪が横行して、歩いてるだけで犯罪者扱いされた。
 ギンジロの時はすでに放置されっぱなしのマスコットキャラがいたおかげで、商店街の一部の人達からは猛反発をくらった。最初の一年間は非公式キャラとして活動し、お客さんの応援によって存続が決まった。
 バンタロについては、立ち上げメンバーの中にやはり反対する人がいて、いろいろ妨害もあった。まあ、そのおかげで反骨精神からいろいろ成長できた部分もあるので、今では感謝している。
 しかしその時は、かつて戦国武将が城を枕に自害したように、負けたら着ぐるみと共に討ち死にする覚悟だった。
 周囲が敵だらけの状態では、せんとくんのように可愛くないという個性は死につながる。
 政治力もない無名のキャラは、相手にされなければ消えるしかない。
 可愛くなければ生き残れない。
 そして生きるためには可愛くなければならない。
 まるで『小悪魔ageha』のage嬢のような悲愴感と共に闘ってきた。
 僕たちは常に、可愛さを武器にゲリラ戦を挑んでいる。
  
 可愛いと言うだけで大衆に迎合していると思われたり、体制側だと錯覚されるが、むしろ立場は逆だ。
 繰り返しになるが、ゆるキャラとは「政治力」と「資本力」があるからこそ、ゆるい存在でいられるのだ。
 キティもピカチュウも、そしてあのミッキーマウスでさえ、血を流しながら歩いてきた道程がある。
 
 キャラクターとは一言で表すならば「唐獅子牡丹」である。
 拠り所もなく息も絶え絶えに、ただ荒野をさすらう孤独なケモノ。
 しかし誰かがふと出会った時にほほえみ掛けてくれるなら、
 そのわずかな瞬間にだけかすかに息を吹き返す、
 窒息寸前の弱く哀しい生き物なのである。
 

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 本文中では「ひこにゃん」や「せんとくん」に対して酷いこと書いてますが、個人的には大好きです。念のため。
 そもそも、政治力と資本金だけであそこまで「育てる」こともできないはず。やはりそこには打算以上の愛情けがあるのだから。

 あとはやはり、ひこにゃん著作権がらみのトラブル抱えてるし、せんとくんだってみんなご存じのように最初は苦難に遭っている。
 政治力と資本力があってすらこんななので、それがないキャラの苦労はどこも負けずおとらず大変なはず。
 
 さらに、こんな話もあるし↓
 
◆「みんなヘトヘト」「先行きが見えない」ゆるキャラブームの行方は? 
http://yurui.jp/archives/51458782.html
 
 殺伐としたことばかり書いてきたけど、人間同士の感情的な行き違いはどうにもならないけど、キャラクターだからこそ軽々と越えられる「壁」もある。
 キティちゃんとガチャピンがコラボしてたり、ひこにゃんとその他大勢のゆるキャラが共演できたりするように、利害関係の対立する人間同士・企業同士ですら、キャラクターを通すと仲良くなれてしまったりするのだ。
同じ政治力でも、こちらは「権威・権力」ではなく「外交力」のような一面だろう。
 むしろ、こっちが重要で、これがあるからこそ猫も杓子も「うちもゆるキャラを!」と参入してくるに違いない。
 
ちなみにスパンキー、東京に帰ってきてます。
仕事の依頼は、こちらまで↓
http://mt-dog.jugem.jp/?cid=11

*1:西荻窪の駅前に同じ作者の像があるけど、すごく可愛い。もともと作者は仏師なので、イラストには違和感があるけど、デザインとしては秀逸だと思う

*2:まあ、このあたりの言いがかりは、単なるひがみだけど

発掘 幕末の陰謀

発掘 幕末の陰謀

  • 作者: 陰謀の幕末史研究会,やまざきまこと,瀧玲子,田中ひろあき,丸山幸治,犬山秋彦,川上隆青,成馬零一
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  • 発売日: 2009/12/19
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ひとつ、具体例を挙げてみる。
今回僕は『発掘 幕末の陰謀』という本の中で、
龍馬暗殺に関するマンガ原作を担当した。
しかしすでに考察の類は出尽くしているし、
事実関係を羅列しただけでは面白くない。
やまざきまこと先生という大御所の漫画家さんに担当して貰う巻頭ページということでプレッシャーもあった。
そこで随分と煮詰まってしまったのだ。
 
マンガ原作は調子が良ければ半日、
歴史モノは資料の整合性などの手間があるので2,3日掛かる。
しかしその時は、3日ずっと考え続けてもアイディアが浮かばなかった。
なんとなく維新後、明治時代のジャーナリストが過去を振り返りながら龍馬暗殺の謎に迫るという「あらすじ」だけは出来ていた。
しかし、モデルになるようなジャーナリストも見つからず、話として盛り上がるような展開も思いつかずにいた。
そこでちょっと気分転換にと、妻と犬を連れて深大寺へそばを食べに行くことにした。
深大寺は犬OKな店も多く、愛犬家にとっては有名な観光スポットなのだ。
愛犬をキャリーケースに入れて京王線に揺られること数分、途中で「芦花公園」という駅を通った。
その時にふと、妻が「そういえば芦花って明治時代の作家なんだよ」みたいなことを言い出した。
恥ずかしながらその時、僕は徳冨蘆花の名を知らなかったので、「ふ〜ん」などと言いながらケータイでwikiを検索してみた。
若い頃にはジャーナリストで、『不如帰』という小説を書いたらしいということがわかった。
「まあ、今回の探偵候補として悪くない。でも、イマイチ華がないな……」
そんなことを思って、その時はすっかり忘れてしまっていた。
 
さらに翌日、犬のエサが切れたので洗足池のコジマへ買い出しに行った。
そのついでに勝海舟の墓参りをすることにした。
幕末の本ということで、かなり世話になっている。
先に書き上げた中村半次郎のマンガ原作にも登場して貰ったということもあり、お礼の意味もあった。
子供の頃から家が近所だったということもあり、実は海舟の墓には行きなれていた。
場所もよくわかっている。
だから普段は案内図など見もしないのだが、その日はなぜだかふと地図に目がいった。
すると、勝海舟の隣に「徳富蘇峰詩碑」と書いてある。
そこで前日気になった徳冨蘆花と記憶の中でリンクした。
「あれッ? 兄弟か何かかなぁ…」
すかさずwikiを確認すると、まさに兄弟。
しかも『國民新聞』というのを発刊して、権力ともかなり濃密に結びついていたらしい。
その瞬間、直感的に「これでいける!」と思った。
 
それから図書館に行き、amazonで関連書を買い集め、ネットで検索もした。
弟の蘆花は明治期のかなり初期に探偵小説を書いてることもわかった。
兄の蘇峰は板垣退助とも親しく、山県有朋など権力と深く関わっていた。
しかも『蘇翁夢物語』には勝海舟の邸宅内に居候していた頃の思い出話などが書かれている。
こんなに都合の良い狂言回しもいないだろう。
当初は板垣退助谷干城をメインに据えて、とことん新政府軍のダークな部分に切り込んでいくという物語を構想していたが、32ページでは分量的に無理なことに気づき、結局は今回のような感じにまとまった。
 
誌面の関係ですべては語り尽くせなかったけれど、少年探偵蘆花と、ジャーナリスト蘇峰、それを見守る勝海舟という配置はなかなか絶妙だったと思う。
しかもやまざきまこと先生のキャラクターデザインが秀逸で、龍馬も格好いい。
 
芦花公園を通った翌日に蘇峰の碑を見つけるというのは、いくらでもオカルト話に転じることができるだろう。
しかし、そもそも幕末をテーマにした本を執筆中にそのネタを探していたのだから、これは偶然ではなく意識的な検索の結果だ。
だいたい歴史的背景というのはどこにでもあって、都内を散歩しているといたるところに幕末に関わる案内を見つけることが出来る。
 
ネットの検索も悪くはないが、ある程度「当たり」をつけて検索しなければ有力な情報が引き出せないので「確証バイアス」がかなり掛かりまくってしまう。
結局は、自分の意図した情報にたどり着く可能性の方が高いだろう。
日常生活にムリヤリな関連妄想を持ち込むと、意外な情報を拾えることがある。
 
だいたい歴史モノは人物を配置すると、それぞれのキャラクター固有のエピソードというのが有機的につながってくる。
今回の場合は、徳富兄弟が物語の後半でちょっと対立するのだが、これは後に絶縁する二人を示唆している。
ちょっと生真面目な蘆花と、権力と結びついて政府の御用ジャーナリストに成り下がってしまう蘇峰との前哨戦みたいなものだ。
 
この二人の物語は、機会があればまた連作していきたい。
明治の混迷期には、まだまだ多くの謎がある。
井上圓了にもご登場願って「こっくりさん」をテーマにした話なんかも考えている。
龍馬暗殺に関しても、もう一本くらい書けそうな気もする。
 

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↓これまでマンガ原作などを担当した本をまとめてあります
http://booklog.jp/users/dogplanet/All?display=front&category_id=1012020

マンガ原作者になる方法 その2

 
疲労困憊している時に布団の中で目を閉じ、
ジッと瞼のウラをぼんやり見ていると幾何学模様が見えてくる。
そのまま焦点右を見たり左を見たりして、キョロキョロしてると
色彩が加わり、草原やら無限に続く瓦屋根といった風景に変化する。
さらに意識を集中してゆくと、だんだんと幻覚は具体的になってゆく。
 
村上隆の作品にあるような戦闘機に変形する美少女が無尽蔵に変形を繰り返したり*1
ドット絵のキム・ジョンイルが、ギャラガのような極彩色で弾けたり、
時にはそのまま明晰夢の世界に突入した。
 
あの頃は両親の集団ストーカー妄想がひどく、
ノイローゼ状態だったというのもあったかも知れない。
現実逃避のため、眠りの世界に逃げていたのだろう。
ここ最近は同じ事をやっても一切幻覚を見なくなってしまった。
 
ビートルズをはじめ、ヒッピー世代のアーティストは
意識拡張のためにLSDなどの幻覚剤を使ったという。
しかし実際に自分がそれらの幻覚を見て感じたのは、
意識拡張による無限の可能性よりも、
自分自身の「限界」だった。
 
いくら自分の「内面」を深く掘り起こしても、
自分の中にあるものしか掘り起こせない。
戦闘少女もジョンイルもギャラガも、
すべてかつて見たモノの焼き直しに過ぎない。
だったら新作映画を観たり、新作ゲームで遊んだ方がよっぽど刺激的だ。
自分の奥深くへインナーとリップするのは心地よいが、
何か新しい物がそこから生まれるようには感じなかった。
 
モノを作るとき、自分の内面というのは嫌でも投影されてしまう。
だったらむしろ投影されない「外部情報」こそ積極的に取り入れるべきだろう。
最近は時々、若手の作った作品にコメントを求められることがあるけど、
一番ダメなパターンは自分の内面にあるものだけで勝負しようとしている場合だ。
特に商業的なマンガ原作の場合、作家性は求められない。
以前にも書いたが、求められているのは「情報」だ。
しかし、作家性を盛り込むことは出来る。
うまく情報を整理して、その味付け程度には作家性が求められる。
 
「内面」や「作家性」は意識などしなくても滲み出る。
だから気を使うべきは「外部情報」なのだ。
 

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それでも強烈な作家性や内面を深く掘り起こした作品に心魅かれる気持ちは痛いほどわかる。
かつて僕も、精神を病んだ人ほど文学的に面白いということに敗北感を感じていた。
 
◆惑星開発座談会 『新興宗教オモイデ教』より「文学は病理か?」参照
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/omoide01.html
 
そこで精神疾患的な思考を模倣することによって、
もっとシステマチックに物語を作ることはできるんじゃないかという結論に至った。
おそらく断片的でランダムな意識の跳躍をタロットカードに託してノウハウ化した大塚英志物語論と同質のものだろう。
 
たとえば実話怪談を書くときには、以前に「集団ストーカーの恐怖・前編」*2で披露したような統合失調症患者の症状を取り入れ、あえて病気でしたというネタ明かしをせずに終わらせることでオカルト談にしてしまったりする。
 
さらにうちの父親なんかにも顕著な例だが、精神疾患の人は「関連妄想」がひどい。
なんでもかんでも関連づけて、意味のないところに深い意味を生じさせてしまう。
たとえば電話番号や自動車のプレート、偶然見かけた時計の表示など、数字が一致しただけで「奇跡」や「意図」を感じてしまう。
ハローバイバイ関の疲労する都市伝説などは、こういったムリヤリな関連妄想を駆使して作られている。
コールドリーディングの技法としても「セレクティブメモリ」というのがあって、印象に残った情報だけが記憶に残り、あとはすべて忘れてしまうから占い師の予言は当たったように見えるというのがあるが、まさに関連妄想の核にあるのは「セレクティブメモリ」と同様の思考法だ。
ずっと気にしてるから何もかも関連して見えてくる。
 
僕は批評なんてものも、結局は関連妄想の延長だと思っている。
たいていのモノは偏見をもって見てゆけば、関連づけることは可能だ。
 
通常、精神疾患の人は無意識のうちにあらゆることを関連づけてゆくので、
いろんなものが奇跡に見えてしまう。
しかしこれを意識的に行うことで、100%の確率で奇跡を起こすことも可能になるのだ。
 

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