犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

十六歳少女が斧で父を惨殺

◆【ムーブ!】十六歳少女が斧で父を惨殺(ひぐらし放送中止の一因)
http://jp.youtube.com/watch?v=GLhkr9Pfawc
 
◆少女オノ事件に関連?「ひぐらし〜」放送中止
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070920-00000932-san-soci
 
◆オノで父親殺害の少女 夢は漫画家だった…
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/85310/
 
◆“ゴスロリ”姿で警官の父を殺害…ビジュアルデザイン専攻
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/85542/

 
 前にも書いたけど、『ひぐらしのなく頃に』というのは表面的な解釈を拒む作品で、最後の最後で謎を解いたあげくに登場人物すべてに共感の情を抱けなければ、単なるグロテスクな<気狂いアニメ>でしかない。
 
 ネタを明かせばベタなくらい「ええ話」だし、誤解や猜疑心やひとりよがりな暴走によって破滅的な結末を何度も迎える登場人物たちを、なんとかいさめてより良い未来を再構築するっていう話だから、マスコミが言うように「斧でかたっぱしから敵を殺すゲーム」ではないし、まず『ひぐらし』の影響で父親殺しを決意したならもちろん少女は間違っている。また、アニメが放送中止になったことに憤って「斧女、死ね」とか言っているアニメファンも、もちろん間違っている。本当に作品の意図をくみとっていれば、むしろ少女に同情と哀れみを抱くだろうし、仮に『ひぐらし』の影響で父親殺しを決意したのだったら、それが作品の内容とは無関係に「当事者が抱えていた問題とアニメの内容がたまたまシンクロして、間違った方向に感情移入し過ぎてしまった結果」なのだということに気づくだろう。
 
 それにしても、ずっと昔から不思議に思っていたことがある。
 たとえば最近なら『ライフ』や、野島伸司の『人間・失格』みたいにイジメをテーマにしたドラマは幾度となく放映されている。そんな時、一般的な視聴のされ方は、たいていは虐められる側に感情移入して涙を流すというものだろう。そういう時、実際に学校や職場で誰かを虐めてる人たちって、どんな気持ちで見てるんだろうと疑問だった。自分のやっていることに全く気づいていないのか、あるいは自分のやっていることはまだ生ぬるいからOKとか思っているのか……

 あるいは、必ず「子供がマネする」という理由でヒステリックな声をあげる善良な人々がいる。内容にかかわらず、彼らはドラマを見ることで子供たちの虐めのバリエーションが増えてしまうことを恐れている。その気持ちはよくわかるし、あながち間違っていない。だけど、むしろ根本にある<イジメの愚かさに気づかせる>という趣旨がまったく無視されている。当人もドラマを理解できてないわけだし、おそらく子供たちだって理解できないに違いないという前提で物事が進んでゆく。
 
 結局、「読解力」の問題になってくる。
 どんなに伝えようとしても伝わらないこともあるし、意図しなかった誤読を誘発することもある。そこが面白くもあり、恐ろしくもある。
 どんなに意味を込めても、気持ちを込めても、相手に理解しようとする気持ちがなければ伝わらない。ましてや、誤解を生むような表現を選んでしまったらなおさら相手には理解できないだろう。
 残酷な加害者にしろ、無自覚な被害者にしろ、おせっかいな傍観者にしろ、伝えたいことを直球で表現できなかった作者にしろ、今回の一件で彼らが到達した果ては「どうせ人と人とは、わかりあえない」という身も蓋もない結末だ。
 
ひぐらしのなく頃に』という作品は、登場人物たちが何度も「どうせ人と人とは、わかりあえない」という状況に陥って悲惨な結末をくり返しながらも、「わかりあえる」と愚直なまでに信じる主人公たちの奮闘努力の結果、最後の最後で大逆転する物語だったりする。だとしたら、今回の事件によるアニメの放映中止という出来事は、本当の意味で我々の敗北だ。殺した少女も、殺された父親も、その周囲の家族も、マスコミも、そして原作者もアニメを制作するスタッフも、その作品を愛する視聴者も、みんな結局わかりあえなかった。正しいヤツがひとりもいない、悲惨な結末。しかも、アニメやゲームの『ひぐらし』みたく、リプレイはない。