犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

死して屍拾う者あり

 妻の叔母が死んだので、通夜に行って来た。僕は最期のお見舞いにいったくらいで他にほとんど面識がなかったので涙はこぼれなかったが、葬儀場の悲しげな空気は伝わってきた。
 
 死者とのお別れの儀式みたいなのに立ち会うことになり、葬儀場の地下へ降りた。壇上には叔母が眠っており、それを眺めるようにパイプ椅子が並んでいた。白衣を着た男女があらわれ、叔母の身体をシャワーで洗い清めたり、足袋や杖や脚絆やアタマにつける三角の布など、あの世への旅支度をしてくれた。あまりに丁寧で手際も良く、思わず感心してしまった。逆水といって、死者の身体を清めるために桶から汲んだ水をかけてやるのだが、その間中、ずっと妻の祖母が叔母に語りかけていた。
「あんな若い男の人に、髪を洗ってもらうなんて初めてだろうねえ……きっと喜んでるよ」
 
 そんな光景を見ていると、ああ、葬式というのは生きてる者の為にあるのだなあとつくづく思う。死者に語りかけることと、死んだ金魚に語りかけること、無機質の人形やぬいぐるみに語りかけることの間に、どれほどの隔たりがあるだろう。実際、ありはしない。生きている人間が勝手に感情移入して、言葉を持たない者に何かを仮託しているにすぎないのだから。だけど、これほどまでに大仰に形式張ってやらなければ、人間の「命の尊厳」なんてものは体裁すら保てないのだ。
 たとえば、可愛がっていた金魚が死んで、翌日生ゴミとして出されたとしても誰も文句は言うまい。ささやかな墓くらい作ってやることもあるかも知れないが、打ち捨てたところで基本的にモラルに反することは何もない。これが犬猫になると最近では供養も盛んだったりもするし、人形供養なんてのもある。
 
 僕はつねづね、エロ本で女性の裸を見るときも自分の身体の傷口を指でなぞる時にも、「所詮こんなものは≪肉≫じゃねえか」と思ってしまうのだが、単なる≪肉≫だからこそ、こうした大仰な儀式が必要なのかも知れない。一歩間違えば、生ゴミの日に出されてもおかしくないようなものを、僕たちは少なくとも生前、愛していたのだから。
 
 生ゴミを愛してしまったら、僕たちはなんとかそれが他の生ゴミとは別格なのだと証明しなければならない。だからこそ僕たちは、愛ゆえに「イワシの頭を拝む」というような愚行を重ねてゆくのだ。