犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破』<ネタバレ注意>

 

目の前で仲間が殺され続けてるのにエヴァに乗れないとうずくまり、「だって仕方ないんだ」と言い訳してしまうという、あそこまでダメなのはシンジくんがダメなオタクで社会性の希薄な引きこもりだからじゃなくて、その数話前でさんざん父親に人殺しを強要されたり、父親に捨てられた愛人(赤木リツコ)が復讐としてその息子の目の前で好きだった女の子(綾波レイ≒ダミープラグ)をボタンひとつで肉塊に変えてしまったり、そういう故意にトラウマ植えつけようとするオトナたちのせいで一時的に精神状態が不安定になってるだけじゃんて気がしました。
 
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/eva02.html

 
すごく昔に惑星の座談会で、自分はこういう発言をしてたんだけど、今回の劇場版はシンジ君に対して周囲のオトナたちがすごく協力的だった。
かつては「エヴァ=子供を抱え込んで離さない母親」という役割があたえられていたんだと思うけど、今回は我が子が冒険に出かけても必ず待っていて、困ったときには最後の最後で救いの手をさしのべてくれるボウルビィが提唱する「安全基地」*1として機能している。
 
今回の新劇場版が、どうしてもセルフ・パロディや二次創作と似たように見えてしまうのは仕方がない。
自社で脱衣麻雀を出してるような会社なのだから。
でも、「本編」としてやるからには、そこには監督自身が言っているように「やり直し」という意味合いが加わってくる。
エロゲーや『ひぐらし』が意識されていないはずはないだろう。
そもそもTV版の最終回こそ、そういったゲーム的世界観の批評的側面を持っていたワケだし。
だから今回は、一度バッドエンドを迎えた物語を、監督も制作者もユーザーも同じ視点で「リプレイ」しているのだ。
たとえば『ひぐらし』の場合、何度も同じ物語を繰り返しながらも、「前回失敗したところ」で「今度はうまくいった!」という快感があった。
今回の新劇場版も、物語のレールが切り替わる瞬間というのが凄く伝わってきて、そこが旧TV版・旧劇場版を観てきた人間には爽快だった。
 
まあ、そういったごちゃごちゃとした批評っぽい事はひとまず置いといて、頭の悪そうな感想を正直に告白してしまうと、エヴァを観るたび、今抱えてる仕事をすべて放り出して映像とグッズに泥酔するオタクになってしまいたいという欲求にかられてしまう。
自分自身、エヴァ商法に抱え込まれてるなあと自覚しつつ、「それでもかまわない」と開き直ってしまいたくなるような、アルコールやドラッグにも似た悪魔的魅力がある。
なんだかあの絵が動いてるだけで酩酊気分になってくるのだ。
幻覚剤を使って放送終了後の砂嵐を眺め続けたり、レンズ式の万華鏡でずーっとYOUTUBEにアップされたPVを見続けてしまう感覚とでもいうのだろうか。
やはり視覚にはトリップ効果がある。ただ世の中にはトリップできるほど刺激的な映像が少なすぎるというだけで。
 
身も蓋もない言い方をすると、今回の新劇場版は、旧エヴァとオトナ帝国とポニョをグッチャグチャにMIXした感じ。
確かにエヴァ以降、押井守も、少女革命ウテナも、『ぼくらの』も、オトナ帝国も、ポニョも、みんな面白かった。
でも、やっぱりエヴァが一番面白かった……というのが自分の結論かな。
映画を観ていて最後まで「早く終わんないかな−」と思わなかったのは、ここ最近では珍しかった。
それは最近の映画はつまらないとか、そういう意味ではなく、自分が歳をとって「こらえ性」がなくなったのと、働けど働けど金が貯まらないワーキングプアだから心に余裕が持てないというだけの話。
 

*1:愛着を形成した乳児は、やがて、常に母親に接触していなくても安心感を得ることようになる。そして母親の居場所を中心とし、探索活動に熱中する。この時、安全が保証されていると感じる母親の居場所を安全基地という。健全な愛着を形成し、信頼できる母親をもった乳児ほど、母親を安全基地とした探索活動を活発にすることができる。http://74.125.153.132/search?q=cache:7m3kzF1lmMwJ:www.nutshell.jp/mind/2004/11/003.html+%E5%AE%89%E5%85%A8%E5%9F%BA%E5%9C%B0&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja