犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ファスト風土批判に対する批判への反論

◆1.僕たちの好きなファスト風土
 実はファスト風土というのは、今すぐ何もかも危うくなるような緊急の問題ではない。 
 むしろ現状、世の中はファスト風土化することで快適になってゆく。誰だって個人商店を何軒もまわるより、大手スーパーでまとめ買いした方が楽に決まっているし、安い値段で新品同様の商品が手にはいるなら、そっちへ流れる。早く・安く・おいしいモノを身近で食べられるなら、わざわざ高級レストランなんて必要ない。
 
 だけど快適な環境を低価格で手に入れることで、実はめぐりめぐってある層より下の人々の収入は低下し、階級は固定化し、将来的な生活の見通しがつかなくなる可能性がある。実際にファスト風土化の進んだアメリカではその地盤沈下があらわれはじめている。「このままでは地方がアブナイ!」という三浦展の「ファスト風土批判」はそこにある。だからこそ、彼は「街の在り方」以上に「新しい雇用の在り方」について語っているわけだ。マクドナルドを増やしちゃいけないとか、開発をしちゃいけないというような話はあまりしていない。フリーターとかニートが増えつつある現状の裏側に何があるのかを読み解こうとした結果が「ファスト風土」なのだ。企業の雇用形態と若者の無気力には関連性があるんじゃないかという指摘が彼の「下流社会」という解釈だし、意欲の高さが部落差別や貧富の差とはまた違った「新しい階級」を生み出しつつあるというのが最近の論調だと思う。
 
 ただ、なんで一部の人々が三浦展を目の敵にするかっていうと、そういう下流化の影響を受けることもない広告代理店出身で小金持ちの三浦展が安全圏から「それ見たことか」と呆れ顔で指摘しているからであって、「お前に言われたくねーよ」という単なる感情論。相手がガンコ親父だとその理屈がまっとうでも聞く耳もてないのとまったく一緒。
 
 
◆2.ジャスコに育まれる愛郷心 
 今さら「ジャスコじゃなくて地元商店街で買い物をしろ!」みたいな強制をしたって誰もそれに従う人間などいない。
 
 むしろファスト風土化によって住み心地が少しでも良くなるなら、地方にマックやツタヤは必要だし、そこに住んでいる人たちが少しでもその土地を好きになれるならジャスコやパチンコやシネコンは必要だと思う。ただ注意しなければならないのは、大企業に倫理なんて求めるべくもない。だからそこの部分を引き受けるのが家族であって地域コミュニティなんじゃないかという話。誰もが快楽を貪って責任を他人になすりつけあっているうちは、何もかもが崩壊してゆくばかり。ファスト風土が悪で、下町風情が正しいなんて話ではないし、ましてや他の街が荒廃して自分の街だけ発展すればそれでいいなんて誰も思っていないはず。

 倫理も豊かさも、その両方を行政や企業に求める甘えがこれまで多少なりともみんなにあって、自分の暮らしを他人任せにしていると、後で痛い目にあいますよという忠告が「ファスト風土批判」なのではないかと僕は思っている。
 だから、コンビニもファーストフードもツタヤもブックオフもあっていいし、それが生活を豊かにするのならば大いに活用するべき。ただしその豊かさは未来を切り崩して得たものなのだから、足元をすくわれないように心構えが必要だと言うこと。「おいしい話にはウラがある」という極一般的な正論だ。
 
「まちBBS」なんかを拾い読みしていると、「自分の街に欲しい店」はだいたいジャスコとツタヤだったりする。僕自身、つねづね大崎にジャスコとツタヤがあったらいいのにといブツクサ呟いている。『木更津キャッツアイ』のモー子も「木更津にスタバができますように」と神社でお祈りしていた。
 
 実はファスト風土を礼賛することはまったくカウンターではなく、むしろ多くの人々がそれを望んでいるからこその危機なのであって、「ファスト風土批判」というのは既得権益をもった老人たちが昔は良かったと懐かしんでいるのとは切り離して考えるべきなのだ。ただ、そういう懐古趣味とシンクロして世に広まったし、便乗して昔は良かった的なことを言う団塊オヤジたちの言い訳ツールとして活用されがちなのもまた事実ではあるけれど、それは読み手が文脈を読み違えただけ、自分に都合の良いところしか読んでいないという意味ではファスト風土を批判する側も、逆に支持する側もお互い様だ。
 
 
◆3.それでも僕たちは東京を目指すのか?
 最近、遠野物語を中心に東北地方にまつわる民俗学関係の本をいくつか読み返しているけれど、本当に当時の東北地方は凄まじい。なんかもう、「なんでそんな酷いところに住んでるの?」としか言いようがない。なぜ寒冷地でそばが名産なのかといえば、他に作物が育たなかったからだ。
 しかし「みんな東京に来ればいいじゃん」で済まないからこその開発とファスト風土化であって、地方に歪みが生じているのは「官」による開発が届かない部分を利益優先の「民」に手放しで任せてしまったことにもある。
 計画的に作った郊外ですら荒廃するのだから、無計画なファスト風土が荒廃するのは当たり前。郊外化の問題は作りっぱなしでメンテナンスする人がいない、あるいは軌道修正する術がなかったというのが最大の問題だと思う。計画都市の「計画」部分には必ず間違いや失敗がある。それに気づいた時点で修正できなければ、その過ちは時を経るごとに大きくなる。
 
 実は僕の関わっている戸越銀座や大崎が今直面している問題というのは大した問題ではないと思っている。商店街がさびれ、シャッター通り化しつつあるのは事実だが、それに対抗してあらがっている。城南出身のBボーイたちは地元が好きだから、基本的に地元にとどまるし他の街に行っても帰ってくる。結婚して子供を産むなら、この街がいいと思っている子たちは多い。だから新しい世代が街に居つくし、自分の住んでいる土地について関心を持ち続けている。
 身も蓋もない話だが「住みたくなるような街が、いい街」という、これにつきる。あと最近では、「自分で勝手に住みたいところに住めばいいじゃん」という発想は若さゆえの傲慢だったなあと思いはじめている。自分はしがらみもなく、若くて健康だったから「移動の自由」を持ち合わせていた。やはり年を取って金がなかったら身動きできなくなるっていうのは、定年を迎えた両親を見いてつくづく思う。自分の力ではどうにもならない。
 店というのは立地で9割がた決まると言われていて、そういう意味では戸越銀座は恵まれている。駅は近いし住宅地はすぐ裏側にある。大崎だってかつては工場の街として発展し、今はオフィス街に変貌しつつある。地域性によって成長しつづけた街だから、まだ方向転換も建て直しもきく。
 
 だからこそ、問題なのは最初から何も持ち合わせていなかった地域なのだ。鉄道の開発から見すてられ、ただ道路が整備されただけの土地。大手チェーン店すら出店をためらうような土地。地場産業もなく観光資源もなく、住民が自分の住んでいる地域を嫌っている場合すらある。何かを変えようとか、何かをはじめようという意欲も芽生えようのないような場所。「街づくり」みたいなスローガンを掲げてがんばれているところはまだ「余力」があるってことなんだと思う。