犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

プリクラ少女と自己イメージ複製時代

プリクラについてはもはや、誰も語らない。
プリクラ文化はもはや、一般大衆からは乖離しすぎてしまった。
 
あるいは90年代だったら喜んで飛びついてそうなオヤジ文化人がスルーしているのは、ただ単に最近のプリクラコーナーって男子禁制だからだろう。おそらく80年代から90年代にかけて元気だったオヤジたちも、今じゃ一緒にプリクラ撮りに行くような相手がいないだろうし、愛人とか飲み屋の女の子と酔った勢いでプリクラを撮るみたいな文化も、おそらく無い。プリクラに寄りつくチャンスもないから、あの≪歪さ≫に気づくことができない。
 
 おそらくロリータやそれに類する衣装倒錯系の少女たちにとっては、プリクラにさえ可愛く写りさえすれば、フレームの外側なんてどうでもいいというメンタリティが芽生え始めている。
 
 最近の『美写系プリクラ』と呼ばれるバカでかいタイプは、後からアイラインを入れたり付けまつげを加えたり頬紅を塗ったりと画面の中で化粧できる。そういう機能がなおさら女の子の3次元放棄に拍車をかけている気がする。一部のコアなロリータはともかく、ちょっとコスプレ感覚でロリータ服を着ている子たちの大多数は化粧っ気がない。ただ単に化粧スキルが無いというだけなら、いつか気づくはずだが、化粧スキルを磨くまでもなく「目的が満たされてしまっている」からこそ、いつまでたっても社交辞令としての化粧の重要さに気づけないでいるのだと思う。最近の若い子が意外とスキンケアとか樽腹に無頓着なのは、現実世界よりも≪自己イメージの世界≫を優先していて、それに満足しているからなんじゃないだろうか。
 街で見かける、お肌がカサカサのロリータというのは、アレは三次元世界ではまだ未完成品であって、プリクラというフィルターをかけてはじめて完成するモノなのだ。
 

他人から見て<わたし>とは、まずはかれの目の前にすがたをあらわしたこの表層としての「顔」だが、わたし自身にとってもっとも親密な<わたし>とは、ひとつの内面と奥行きの次元である。ウチと外の境界にある「顔」という表層をへだてて、つねにひとが見ている<わたし>と、わたしがそう考えている<わたし>とのあいだにはずれがある。
 
『電脳遊戯の少年少女たち』西村清和

 
 普通は「他人から見られるている自分」と、「自分の中にある自己イメージ」というのはかなり違っているはずだ。しかしプリクラを通すと8割方、自己イメージ通りの自分がプリントアウトされてしまうから、それが≪他者からの視点≫に差し替えられているんじゃないかと、そんな気がしてならない。プリクラは魔法少女アニメの変身シーンを疑似体験するための箱なのだ。アレに白銀硬化4枚くらい投入することで呪文がかかって、可愛さのステータスを底上げされた≪自己イメージ≫が2次元のヴァーチャル世界に複製される。この感覚が2・5次元であり、まさにコスプレ風俗とかメイド喫茶もこの延長線上だと思う。男側の需要と女の子側の需要は異なるが、たまたまお互いの利害が一致してしまったという幸福な関係なのだろう。
 
 最近はプリクラもアトラクション化している。つい最近、久々にプリクラを体験してみて、筐体が≪迷宮化≫していることに驚いた。ほんの2畳かそこらの空間をあっちに行ったりこっちに行ったり、あげくトンネルをくぐって反対側に抜けるようなタイプまである。あれはオヤジ系文化人が語り出したら≪胎内回帰≫だとか何だとか、屁理屈のひとつもひねりだして解説しだすだろう。さらにモニターにあらわれるストーリーを追いながら物語世界へ自分も迷い込んで記念撮影みたいなタイプもあるんだけど、やってみるとすごく≪とってつけた感≫がある。おそらく、純粋に前に撮影した人が画像を加工したりラクガキする時間を確保するために無理矢理つけた機能なんだろうけど、そういう妙な進化の仕方をのぞいてみるのも一興だったりする。