犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

ケータイ小説研究1

 新聞の記事で「ケータイ小説が124万部」みたいなのを見かけてから注目してるんだけど、ここしばらく観察してみていろいろわかった。まずターゲットは本を読むとアタマが痛くなってしまう10代の女の子。本は苦手だけど、携帯メールくらいは打つので、短いセンテンスの文章には親しみがある。
 ドキュン、ヤンキー、ツッパリ、ギャル……いろいろな言い方があるけどつまりターゲットは昔ながらの低偏差値な不良少女なわけで、ディズニーランドの最大ボリューム層と一致する。
 
まずはケータイ小説の黄金律みたいなものがありそうなので、まとめてみた。

ケータイ小説の黄金律
 
・主人公は中高生の女の子。主語は一人称。
(メインターゲット層が主人公に感情移入しやすいように)
 
・古典的な少女マンガのような展開をほぼ踏襲
(男女が廊下でぶつかってケンカしたり)
 
・男性の萌えシチュエーションを逆視点から語る
(ドSな御主人様のもとでメイドになったり)
 
・甘エロという名のラブシーンは必須
(いきなりキスされる、いきなり抱きしめられるなど)
 
・主人公は複数の男性に次々と告白される
ときメモガールズサイド的な展開? やったことないけど)
 
・1頁につき200〜300文字
(設定上は1頁1000文字まで表示可能)
 
・1頁単位で繰り返される急展開
(連載漫画の「次号へ続く」みたいなのが延々と続く。井上脚本における「水落ち」、「多段ミサイル打ち」みたいな感じ。)
 
・改行もまた演出のひとつ
(一行書いては、2,3行あいだを置いて絶妙な「間」を演出)
 
・8割方、会話で物語が進行
(だいたい、どうでもいいような日常会話)
 
・偏差値低めの女子が相手なので設定の甘さは問題ない
エイズなのに症状がまったくエイズらしくない、など)

 
 こうして見るとケータイ小説の始祖的存在『DEEP LOVE』ってこの要素をことごとく含んでいる。
 この中で最も重要なのは「甘エロ」で、度を過ぎると管理者から規制が入ってしまう。
 「甘エロ」に唯一対抗できるのが学園ホラーものなんだけど、これはホラーというよりデスノートやバトルロワイヤルみたいにゲーム性が高く殺意や憎悪など人間の負の側面がフューチャーされているのが良いらしい。だけど、ホラーは甘エロほど容易にランキングには入れない。あと、難病とかメイドもの、ホラーものなど、だいたいひとつネタがあればそれを展開させる形でゴリ押しできるのも特徴。
 
 文章による表現力は二の次で、あらすじもどっかで見たような展開の連続なので、創作というよりはかつて自分が接した記憶のある物語を切り貼りして編集する感じに近い。

 それと甘エロの次に重要なのはページや改行による「間」で、これはテキストノベルにおけるクリックして文章が表示される間隔に近い。使い方によってはかなり効果的。
 
 僕は携帯電話を持つのがかなり遅くて、2,3年前はじめて手にしたのだけれど、はじめて携帯電話で活字を読んだ時、パソコンで読むのとは違う独特の「洗脳力」みたいなものを味わった。
 バックライトで浮かび上がる文字、ボタンを押すことで生じる能動性、すべて自分の手の中におさまっているという安心感。ケータイにしかできない表現方法は確実に存在する。
 
 
 携帯小説の特徴はもうひとつあって、人気が出ると書籍化されて本まで売れてしまう。おそらく本は関連グッズ的なウェートを占めてるんじゃないかと思う。そういう意味では芥川賞作品が売れてしまう構造とも似ている。芥川賞作品というのは、実際には読まれていない場合が多い気がする。
 まず、第一のターゲットはすでに芥川賞が発表された時点で読んでいる人たちで、とりあえず手元においておきたいってタイプ。第二は芥川賞ならチェックしなきゃというタイプ。で、第三は話題になってるならとりあえず買って批評しなきゃってタイプで、ネット上ではこれがわりと多い。
 
 よくオタクやマニアは「そんなのオレにも出来る」的な言い方をするんだけど、それは違うだろと思う。大切なのは「自分にできることをやる」ってことと、「欲しがっている人に、その欲してる物を与える」というバランスが重要。純文学と商業主義の対立ってこういうとこから来るんだけど、自分のやりたいこと、書きたい物を書いてそれがジャストミートに読者の趣向と一致するケータイ小説というジャンルは幸福だと思う。
 でもまあ、実はランキング上位を占めてる人間は確実に確信犯だとは思う。本気でやろうと思えばあるていどニーズが読めるから。そもそも80年代からツッパリ系の不良文化って金を使ってくれるし嗜好も単純だからマーケティングの対象だったわけだし。
 
 そもそも、「有名作家の小説ですら1万部売るのに苦労するのにケータイ小説ごときが10万部って何故?」みたいなのは愚問で、これは文学とは別物。
 ケータイ小説は、マーケットの対象が文学やオタクとはまったく違うし、むしろ「パステティーン」や「ミントティーン」といった、女の子向けのエッチ系投稿雑誌のノリなんだろうなあ。もうこのジャンルの方向性は完全に固定しているので、目新しいことをしてそれが認められるという余地はほとんどない。ここで文学表現にこだわるとかって、まったく無意味。さらに、メンタリティとしては「ティーンズロード」的な要素も必須だと思う。

よさこい文化

 愛犬の凛太郎をお台場のドッグランに連れて行った時、たまたまヴィーナスフォートで「夜さ来い」というイベントをやっていてブッたまげた。どうやら元型は高知の「よさこい」と北海道の「ソーラン節」を組み合わせたものらしいのだが、東京風味にアレンジしたのが「夜さ来い」らしい。もともと土佐かどっかでは夜這いの風習だったという説もあるとか、ないとか。
 
どこら辺に驚いたかというのをザッと書き出してみる。

●まず衣装がマンガ・アニメ・ゲームのコスプレを思わせる無国籍なデザインで、しかもド派手。
 
●音楽は昔ながらの「よさこい」のフレーズが一ヵ所でも入っていればOKらしく、ケルト風のものからユーロビートまで無軌道で幅広い。
 
●掛け声で踊り子を指揮するMCという存在がまたおもしろい。普通に演歌や民謡調の唄をみたいなのを生で歌う人もいれば、B-BOY張りに怒濤のラップでしゃべり続けたり、応援団みたくただ叫んでたりと様々。
 
●「よさこい作曲家」というのがいて、これがまた副業的にけっこう稼げるらしい。CDは発売とかされてないけど膨大な量の音楽的蓄積がある(CDがあったら欲しい)。
 
地方車という、イベントでパレードの先頭に立ってスピーカーで音楽を流す車がある。デコトラみたいな感じで、コレに乗って高速道路をカッ飛ばすみたいな動画がYouTubeにあった。この改造車に対する愛着というのはヤンキーや右翼に共通するし、最近ではオタクも痛車なんてものを乗り回している。クルマ好き文化という点で、どうやらヤンキーもオタクも親和性が高いらしい。
 
●踊り自体は基本的に「鳴子」という打楽器みたいなのを使うのだが、別に使ってないところも多い。竹の子族とか一世風靡みたいな感じの振り付けも多く、微妙にパラパラが組み込まれていたりもする。
 
●年齢層が幅広くて、幼児から老人までいて、みんなけっこうハードな踊りをこなす。ヘタならヘタでべつに味になるし巧い人は本当にうまくて、そういう人が一団体にひとりだけポツンといたりする。しかも見た目がオタクっぽかったりして、ダンスダンスレボリューションの上手なゲーマーみたいだった。
 
●バックでは応援団みたいなデカい旗を振るのだが、もう本当に正気の沙汰じゃないほど馬鹿デカい旗を振っている団体があった。2,30人は余裕で雑魚寝できそうなくらい。

 
 今までまったく気づかなかったが、「よさこい文化」というのはオタクとヤンキーの醜悪なところを煮詰めたら程良くオモシロおかしい文化に育ってしまったという感じ。
 
 まず、趣味に費やす金遣いが荒い。消費行動をクリエイティブな何かと勘違いしている。妄想癖があり、プライドが高い。孤高を気取りながらも、実は帰属意識がすごく強い。この辺は異論もあるだろうけど、オタクとヤンキーに共通してる傾向じゃないかと。
だからウチのヨメみたく元ヤンでオタクなんてザラにいるし。オタクはむしろヤンキー高校でこそ輝けるし、自衛隊にもたくさんいた。ヤンキーに対する憧れの反動でオタク趣味に走っているようなタイプは、周囲に思い当たる人も数人いる。
 
 このオタク・ヤンキー文化に対極するのは文化系だと思う。「文化系は金を使わない」と前々から思っていたんだけど、糸井重里も『文化系トークラジオ Life』で断言してた。
 本の知識というのは、確かに新刊で揃えれば金もかかるけど、基本的に図書館などで資料をあさったっていいわけだし、文化系は基本的にインターネットで手に入るような無料の情報が好きだったりもする。
 引きこもりニートが「文化系」を自称するのも、結局自分には「何もない」ということの言明であり、彼らはインターネット上に全ての情報がアップロードされていて、WinnyとかGya0とかYouTubeでいくらでも文化的な蓄積は可能だと考えている節がある。さらに、なぜ文化系の趣味人がモテないかと言えば、単純に異性や人間関係にかかるコストを惜しむからだろう。
 
 よさこい連のグループ名を収拾してみたが、これがかなりヤンキーぽいというか、無駄に漢字を使った氣志團みたいな感じのネーミングが多い。この日本独特の漢字変換文化というのは他にも色々あるけれど、パッと思いつくだけでもSDガンダムとか、スナックの名前、竹の子族、ツッパリあたりだろうか。あとは格闘ゲームやファンタジーゲームの技の名前なんかも漢字の乱用が目立つ。
 
 それと「よさこい」の楽曲名には「大地の響き」「息吹」「魁」「響楽」「華」など、『仮面ライダー響鬼』テイストなものがちらほらと……
仮面ライダー響鬼』はもうちょっとヤンキーテイストが強かったらウケたのかも知れない。
 

■参考動画
http://www.youtube.com/watch?v=EuOvTruCeV4
http://www.youtube.com/watch?v=73WWZEy8fkQ&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=xyG_CCqSaWY
http://www.youtube.com/watch?v=4mwHT7AfNMU&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=4dTjRdUbNwk&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=W0MePF5VLk0

■参考リンク
SD戦国伝シリーズ武者リスト
http://www.geocities.co.jp/Playtown/8352/html_box/co_musya_gun.html

仮面ライダー響鬼
http://www.tv-asahi.co.jp/hibiki/

原宿竹の子族1981〜1983
http://homepage3.nifty.com/ph-ken/sub5.htm

竹の子バリバリBAMBOO MEMORY
http://www.geocities.jp/marubina/

暴走族 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E8%B5%B0%E6%97%8F

ブログちゃんねる:こういうのみんな描いたよな…
http://blog.livedoor.jp/blog_ch/archives/50570040.html
http://image.blog.livedoor.jp/blog_ch/imgs/8/0/80d8f4f0.jpg

当て字変換ツール
http://skt-products.com/contents/yorosiku.html

■資料1 よさこいのネーミング
 
舞士@踊魂
にゃんこ隊
河童隊
煌星〜かなた〜
風舞人
調布よさこい組藍心(アイコ)
バサラ祭り
華天-GETEN−
高知痛子会(大橋通のイタコ・・痛子姐さん)
粋IKI爽
まず『粋IKI爽』を『いきいきそう』と読まれた方!
違います(笑)これは『いきいきなおき』と読みます♪
ODAWARAえっさホイおどり
“小田原流よさこい”、その名も「ODAWARAえっさホイおどり」
歩笑夢〜ポエム〜
きらら岡崎
六陸〜RIKU〜
よさこいびと@島根
舞灯雄武(まいらいとおうむ)
彩嵐風(いろどりらんぷう)(埼玉)
TO-EN(灯炎)
火の国SORAKOI祭
ゑびしば!
知のはりまや橋にある京町・新京橋という商店街のよさこいチーム、ゑびすしばてん連
〜 祭りの國 能登の賑い 〜
なに輪祭り
夢現乃翔舞』-MUGEN no SHOW BU-
『神石踊り娘隊 きらきら星』<神石>
『油木小学校』<神石>
『豊松中学校』<神石>
天領花乱舞』<府中>
『和乃会』<府中>
『YAMATO くれびと』<呉市
『益田蟠竜おどり隊』<島根>
『紅蝶連』<島根>
『Sup Dup Fly』<廿日市
『桜流王』<熊野町
Team-蘭丸
楽夢(よさこい
REDA舞神楽@mixi
Ω 童 心 Ω
新琴似天舞龍神

よさこい鳴子踊りチーム『半布里』(はぶり)
浜松学生連・鰻陀羅(マンダラ)
大学祭実行委員会OB&OG 「祭人」
紅踊輝 (くれないようき)
ひめじ良さ恋まつり
むろらん鯨翔舞
YOSAKOI Team Eden
鳴子踊りチーム〜翼〜
京都チーム「櫻嵐洛」(さらら)
1999 京都チーム「櫻嵐洛」発足
   (前身:京都学生チーム「夢大路」)
2000 「大輪の花、咲かせよう、京都だってアツいんだ!」
2001 「もののけ
2002 「PLAY/PRAY」
2003 「現代版平家」
2004 「恋し桜」
2005 「夢都」
2006 「鼓動〜Heat ∞ LIVEs〜」
レゲレゲレンジャー
愛知江南短期大学ダンスサークルasuka
大江戸東京音頭
中央区で主にかかる、アップテンポな東京音頭
はなこりあ−よさこいアリラン
もっ’Z
崎大学突風
炎 〜ほむら〜
京極発幸舞連(ほっこまい)
福井県の学生よさこいチーム「福井大学よっしゃこい」
高知の「ほにや」よさこい
よさこい(夜咲恋)
よさこいソーラン風神 
会津大学よさこい『慧』
魔皇(まおう)
風人の祭2005in北海道
早大よさこいチーム「東京花火」
凛華
Yosakoi魂魄(こんぱく)
100人ダンスチーム! 浪花乱風!!
飛鳥
熱風舞人
よいさかどっ恋
あっぱれかぐや
踊って弥雷!
おきゃんら
朝霞翔舞 あさかしょうぶ
朝霞真誠塾 あさかしんせいじゅく
朝霞鳴子一族め組 あさかなるこいちぞくめぐみ
遊人 あっぴ
Anjo”北斗” あんじょうほくと
粋 いっき
いろはさくら組 いろはさくらぐみ
うらら
海老名商工会議所えびな桜舞会 えびなしょうこうかいぎしょ えびなおうぶかい
桜華翔 おうかしょう
「舞瓢」「まいひょう」
ALL☆STAR おーるすたー
カサナリーズ かさなりーず
蔵っこ くらっこ
群青 ぐんじょう
彩霞隊夏舞徒 さいかたいかぶと
相模It’s彩楽祭 さがみいっさいがっさい
相模原祭人THE翼 さがみはらまつりびとざつばさ
桜颯蘭舞 さくらそうらんまい
紫音−sion しおん
子鳩子兎「 横浜百姫隊」 しぐねっと「よこはまびゃっこたい」
襲雷舞踊団 しゅうらいぶようだん
上州高崎”美いどりい夢” じょうしゅうたかさき“びぃどりいむ”
show me presents MEDIA98 しょうみー ぷりぜんつ めでぃあきゅうじゅうはち
沼南よさこいゴチャ連 しょうなんよさこいごちゃれん
新芸組遊駆人 しんげいぐみ あくと
新松戸雅ノ會 しんまつどみやびのかい
酔来亭セピア すいらいていせぴあ
勢や せいや
爽(上州高崎雷舞爽踊隊) そう(じょうしゅうたかさきらいぶそうおどりたい)
Team AZURA ちーむ あずら
調布よさこい組 藍心 ちょうふよさこいぐみ あいこ
調布よさこい組 澄舞流 ちょうふよさこいぐみ すまいる
調布よさこい組 舞夢 ちょうふよさこいぐみ まいむ
DAY CLUB International Team でいくらぶ いんたーなしょなる ちーむ
K-ONE動流夢
CHIよREN北天魁-つるせよさこい-

■資料2 族語
 
夜露死苦(よろしく)
愛死天流人(あいしてるひと)
愛死天流夜(あいしてるよ)
愛羅武勇 (あいらぶゆう)
打衣素希  (だいすき)
我々友情永遠不減
喧嘩上等 暴走天使 天下無敵 全国制覇 
愛死天流 極悪非道
納菓夜死(なかよし)
邇鼓々(にこにこ)

■資料3 スナックや居酒屋など漢字変換された英語
 
離再来  リサイクル
来夢来人 ライムライト
味楽来  ミラク
萌亜   モア
居間人  イマジン
出似色  デニー
亜来舞  アライブ
愛&優  アイ・アンド・ユー
薔薇人  バラード
愛花夢  アイ・カム
綺羅々  キララ
来居夢  ライム
駅造地区 エキゾチック
珍竹林  ちんちくりん
豚珍館  とんちんかん
今人   イマジン
多恋人  タレント
童夢   ドーム
風雷坊  ふうらいぼう
揚羽   アゲハ
色葉   いろは
愚澪人  グレート
ふれ愛
夜来香  イエライシャン
紅桜夢  こうろうむ
花苑   かえん
紫音   シオン
紗羅   さら
李香蘭  りこうらん
楊貴妃  ようきひ
愛郷   アイゴー
いざ酔い 
酔虎伝  すいこでん
喜楽   きらく
味楽   みらく

■資料4 竹の子族
 
留美亜(シルビア)
不恋達(フレンズ)
乱奈阿珠(ランナーズ
幻遊会(げんゆうかい)
一日一善(いちにちいちぜん)
呪浬悦賭(ジュリエット)
魔呪夢亜(マジムア)
英雄(ヒーロー)
麗羅(レイラ)
夢英瑠(ムエル)
異次元(いじげん)
龍虎舞人(りゅうこぶじん)
愛・花・夢(あい・か・む)
レインボー&エレガンス
憂斗妃鳴(ユートピア
エンジェルス
神義嫌(ジンギスカン
愛・愛(あいあい)
竹取物語(たけとりものがたり)
エンドレスサマー
獅利亜巣(シリアス)
流珠(るーじゅ)
唖乃琉斗(あだると)

■ネット上で見つけた資料からの引用
 
近年、高知の「よさこい」、北海道の「YOSAKOI」、そして関東では「夜さ来い」とそれぞれ違った読み方が広まってきました。

高知では民謡「よさこい節」を、北海道では「ソーラン節」をそれぞれアレンジして、鳴子両手に踊っています。

実は関東も隠れた民謡の宝庫で、例えば東京だけでも1200曲あまりの民謡が現代に伝わっています。
よさこいのもともとの語源である、土佐弁の夜さ来い(よるさこい)をヒントに「夜さ来い」と命名されました。

関東では、東京通勤圏である都市を中心に鳴子踊りを取り入れた祭りが益々盛んになっています。
 
よさこいとは何か
 戦後の荒廃した市民生活が落ち着きを見せ始めた昭和29年。不況を吹き飛ばし、市民の健康と繁栄を祈願し、併せて夏枯れの商店街振興を促すために、高知商工会議所が中心となって発足したお祭りです。よさこいとは「今晩おいでなさい」の意味で、「夜さ来い」「夜更来」「宵更来」などと表記します。また、当て字で「夜小恋」とも。
 もともとは高知県の伝統的な民謡、「よさこい節」の事を表す言葉でありました。このよさこい節はメディアがマスになる以前、民衆に愛されたいわばヒット曲であり、歌詞も民衆の生活に密着したものが多く創られました。よさこい踊り(=鳴子踊り)は、鳴子(=なるこ)を持った踊り子たちがよさこい節に合わせ踊ります。

 当初は750人だった高知の踊り子の数は、第30回大会をむかえる頃にはついに10,000人を突破しました。よさこいは絶えず新しいものを取り入れながら、チームの個性化と表現力は進化していきました。昔は正調よさこい節が主流だったようですが、伝統的な楽曲から徐々にロックのバンド演奏などが増え、髪型や衣装も派手さを増しています。振り付けもサンバ調、ロック調、古典の踊りと工夫を凝らしており、見物人を飽きさせない祭りです。
 
よさこいの6大要素
【鳴子】
 よさこい鳴子踊りの作曲者である武政英策氏が阿波踊りと明確な区別をさせるために、米どころ高知らしく“雀おどし”の鳴子をモチーフに制作。今ではチームの特色に合わせた様々な鳴子が使われています。
【踊り子】
 法被、浴衣、Tシャツ、民族衣装などオリジナルの衣装を身に着けた踊り子が両手に鳴子を持って踊ります。1チームの人数は20〜150人程度。子供からお年寄りまで年齢層も幅広い。

【MC】
 曲に合わせてかけ声をだし、踊り子たちに気合いを入れる指揮者的なポジション。MCのノリとキレの良さひとつで踊りの迫力が変わってくる重要な存在です。

地方車
 前進し踊る踊り子を誘導・演出する役割を持つ音響車。2〜4トンクラスのトラックを使用して、大出力のスピーカで曲を流し、カラフルな照明で踊り子を酔わせます。特にそのスピーカの音圧は踊り子はもちろん観客を地鳴りのごとく震わせるほどの迫力です。

【競演場】
 踊り子が踊りながら前進する流し踊り形式では100〜500メートルの距離の道路を踊りながら進みます。その他に進まずにその場で固定して踊るステージ方式もあります。

【楽曲】
 地元の民謡とよさこい節を曲の一節に取り入れる以外は、ロック・ジャズ・古典などジャンルは自由であり、チームごとに個性のある楽曲をほぼ毎年制作し、その楽曲に合わせて踊りの振付けや衣装を製作しています。
http://www.yosakoij.com/yosakoi.html

プリクラ少女と自己イメージ複製時代

プリクラについてはもはや、誰も語らない。
プリクラ文化はもはや、一般大衆からは乖離しすぎてしまった。
 
あるいは90年代だったら喜んで飛びついてそうなオヤジ文化人がスルーしているのは、ただ単に最近のプリクラコーナーって男子禁制だからだろう。おそらく80年代から90年代にかけて元気だったオヤジたちも、今じゃ一緒にプリクラ撮りに行くような相手がいないだろうし、愛人とか飲み屋の女の子と酔った勢いでプリクラを撮るみたいな文化も、おそらく無い。プリクラに寄りつくチャンスもないから、あの≪歪さ≫に気づくことができない。
 
 おそらくロリータやそれに類する衣装倒錯系の少女たちにとっては、プリクラにさえ可愛く写りさえすれば、フレームの外側なんてどうでもいいというメンタリティが芽生え始めている。
 
 最近の『美写系プリクラ』と呼ばれるバカでかいタイプは、後からアイラインを入れたり付けまつげを加えたり頬紅を塗ったりと画面の中で化粧できる。そういう機能がなおさら女の子の3次元放棄に拍車をかけている気がする。一部のコアなロリータはともかく、ちょっとコスプレ感覚でロリータ服を着ている子たちの大多数は化粧っ気がない。ただ単に化粧スキルが無いというだけなら、いつか気づくはずだが、化粧スキルを磨くまでもなく「目的が満たされてしまっている」からこそ、いつまでたっても社交辞令としての化粧の重要さに気づけないでいるのだと思う。最近の若い子が意外とスキンケアとか樽腹に無頓着なのは、現実世界よりも≪自己イメージの世界≫を優先していて、それに満足しているからなんじゃないだろうか。
 街で見かける、お肌がカサカサのロリータというのは、アレは三次元世界ではまだ未完成品であって、プリクラというフィルターをかけてはじめて完成するモノなのだ。
 

他人から見て<わたし>とは、まずはかれの目の前にすがたをあらわしたこの表層としての「顔」だが、わたし自身にとってもっとも親密な<わたし>とは、ひとつの内面と奥行きの次元である。ウチと外の境界にある「顔」という表層をへだてて、つねにひとが見ている<わたし>と、わたしがそう考えている<わたし>とのあいだにはずれがある。
 
『電脳遊戯の少年少女たち』西村清和

 
 普通は「他人から見られるている自分」と、「自分の中にある自己イメージ」というのはかなり違っているはずだ。しかしプリクラを通すと8割方、自己イメージ通りの自分がプリントアウトされてしまうから、それが≪他者からの視点≫に差し替えられているんじゃないかと、そんな気がしてならない。プリクラは魔法少女アニメの変身シーンを疑似体験するための箱なのだ。アレに白銀硬化4枚くらい投入することで呪文がかかって、可愛さのステータスを底上げされた≪自己イメージ≫が2次元のヴァーチャル世界に複製される。この感覚が2・5次元であり、まさにコスプレ風俗とかメイド喫茶もこの延長線上だと思う。男側の需要と女の子側の需要は異なるが、たまたまお互いの利害が一致してしまったという幸福な関係なのだろう。
 
 最近はプリクラもアトラクション化している。つい最近、久々にプリクラを体験してみて、筐体が≪迷宮化≫していることに驚いた。ほんの2畳かそこらの空間をあっちに行ったりこっちに行ったり、あげくトンネルをくぐって反対側に抜けるようなタイプまである。あれはオヤジ系文化人が語り出したら≪胎内回帰≫だとか何だとか、屁理屈のひとつもひねりだして解説しだすだろう。さらにモニターにあらわれるストーリーを追いながら物語世界へ自分も迷い込んで記念撮影みたいなタイプもあるんだけど、やってみるとすごく≪とってつけた感≫がある。おそらく、純粋に前に撮影した人が画像を加工したりラクガキする時間を確保するために無理矢理つけた機能なんだろうけど、そういう妙な進化の仕方をのぞいてみるのも一興だったりする。

マンバ考③ 俄然アキバな、着ぐるみん登場☆

 人生における最初の義務は何かのふりをすること。次に大事な義務は、まだ、誰も知らない。
 
ベルベット・ゴールドマイン」 トッド・ヘインズ/大森さわこ・訳

 
 ここ数年、ストリート上に展開された一連のギャルファッションは「性的な身体の拒絶」と「身体性を拒絶するデコラティブさ」がキワだっていた。そして極めつけは着ぐるみに身を包んだマンバ集団、「着ぐるみん」の登場だ。彼女たちはディスカウント・ショップ『ドン・キホーテ』で購入した、着ぐるみ――というよりもパーティーグッズのかぶりものを着てセンター街で大暴れしているという。
 そして彼女たちはセンター街を半永久的な祝祭空間と解釈して「ハレとケ」の区別を無視したエピキュリアン的な生活を謳歌しているのだ。
 

 ドンキで試着したのが最初。「カレ氏来た時、着ぐるみだとカワイイじゃん☆」「地元ヨユーでしょ?!」とか。家ならそのまま寝ても温かいしね〜。(中略)まぁこれからの季節、さすがにあついから、とりあえず耳とシッポで☆ 寒くなったらまた着ぐるみみたいな〜。(みずき) 別冊egg『manba』Vol.1

 
 インドのヒジュラと呼ばれる両性具有者は、普段は被差別民として迫害され、石をもって追われる身だが、結婚・出産・祝祭・葬式などの非日常的なイベントでは「穢れ」を一身に背負う者として重宝がられ、どこの家庭でも歓迎される。マンバをヒジュラに例えるのは非常に飛躍しすぎだとも思うが、彼女らは被差別的な視線にさらされつつも「なんでもない日おめでとう!」という極めてアリス*1的な享楽の日々を送っている。柳田民俗学的にいうところの「ケ」の状況を「ハレ」に変換してしまう彼女たち独特の強引なパラダイム・シフトの概念が、逆に本来「ハレ」の空間であるべきアルバローザやクラブからの出入り禁止という祝祭空間からの阻害を余儀なくされるのも、むべなるかなというところだ*2
 
 そんな、着ぐるみを着て街を歩いたり、毎日ドンチャンさわぎをしたりと、かなりテンションの高そうなマンバだが、実はそんなこともない。
 

 渋谷でCHO→有名なゴリたん+りーたん+ゆーたん+ごーたん登場☆ てか4人ともテンション低メ(笑)。けど力抜けててイイカンジ♪

 
 と『manba』の記述にもあるように、毎日を祝祭空間で過ごしているわりにマンバやGUYのテンションは低い。ゴングロメイクを生み出した教祖的存在のブリテリにしても、≪メイクとは『ホントの自分を隠す道具』≫であると明言しているし、ブリテリと彼女を慕うヤマンバ黎明期の「ガングロ3兄弟with U」たちの趣味は、≪センターを通り過ぎる人をファッキン前で人間鑑賞してて(最高記録は20時間)≫とか、≪雨の日はふみっこんちでAV鑑賞&官能小説の朗読会三昧♪≫という非常に地味なものであった。
 はっきり言ってこんな余暇の過ごし方、オタクやサブカル者が実践すれば「キモ〜い」と言われかねない。しかし、このオタク臭、地味な感じというのが宮台真司が言うところの「イケてなさ」こそがマンバ文化をコギャル文化から切り離した原動力なのではないかと思う。
 そして、それを裏付けるかのように、『manba』の中にこんなアンケート結果がある。
 

「マンバ前は何系?」
 1位 ギャル  61.0%(61人)
 2位 アキバ系  7.0%( 7人)
 3位 お姉系   6.0%( 6人)

 
数値上のレトリックでしかないが、アキバ系が第2位にランクインされていることの意味は大きい。もしかすると反感を買ってしまうかもしれないと思いつつ、あえて書いてしまう。マンバもゴスロリも、「内面の貧困さを覆い隠すデコラティブ」という一点ではまったく同じ穴のムジナなのだ。つまりそれは、アキバ系における2次元キャラが持つ「装飾の過剰さ」にこそ彼女たちの本質があるという僕の勝手な解釈である。
 
 土方巽は身体を≪空駄(カラダ)≫*3と表記した。白塗りのカラッポな身体にダンスという精霊を宿し、欠落した部分を補完する……先日、暗黒舞踊を観て感じたのはそんな代償行為としての身体酷使だった。売春も身体改造もファッションも、直接的に身体にリンクする。まずはカラッポな身体という容器があって、そこに装飾華美なフリルやアクセやその他もろもろを詰め込んでいる。
 削除することは難しいが、付け加えることは容易だ。RPGのキャラに複数のアイテムを装備して最強に近づけば近づくほど選択肢は狭まり、ストーリー終盤ではほとんど個性が消滅する。センスが冴えれば選択肢が減るという奇妙なスパイラル。あるいは「猫耳・しっぽ・大きな鈴・大きな手足・メイド服」というデ・ジ・キャラットの装飾を見ても明らかなように、アキバ系が二次元世界でたどった「足し算式」の様式美がマンバやゴスロリには流入している。 自分ではない誰か、他の誰かになるための消去法的な選択肢が「高野友梨ビューティークリニック」的なダイエットやプチ整形だとしたら、積極的なメタモルフォーゼこそマンバであり、ゴスロリなのだ。白塗りも黒塗りも、皮膚の表面の凹凸を消滅させる手段でしかない。そしてファッションとは個性ではなく、平均化への欲動なのだ。
 
 そして本題の「着ぐるみん」に話が戻る。着ぐるみこそ、身体の平均化にはうってつけのアイテムなのだ。柔らかなフリルがカラダのラインを隠すように、着ぐるみも「身体性の拒否」には都合がいい。歪な身体を覆い、個性を消滅させる。黒塗りメイクによって理想の顔面を獲得し、なおかつ外界との接触を試みる……仮面が彼女たちをストリートへといざなっている。
 
 何度も繰り返すが、マンバはコギャル文化の延長線上ではなない。むしろアキバ系のアクティブな変種だ。彼女たちは幼稚園児がセーラームーンの「ごっこ遊び」をするように、あるいはコミケセーラームーンのコスプレをする代わりに、コギャルに擬態していたのだ。そしてストリートに居場所を見つけた。90年代にキティが頭に飾っていたハイビスカスの花こそが彼女たちの崇拝対象であり、金銭的に裕福でない彼女たちにとってブランド品なんてどうでも良かった。だからこそ90年代のイコンとして選ばれたのはアルバローザだったのだ。彼女たちは決してコギャルなんかではないから、コギャル文化が衰退してもなおその場に居続けた。
 
「最も危険な行為とはひとつの場所にじっととどまり続けることなのだ」とバロウズギンズバーグに宛てた手紙で書いたそのままの暮らしを、彼女たちは実践している。マンバもまたゴスロリと同じく「保守反動」なのだ。

*1:もちろんルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』。ちなみに東京ディズニーランドの『クィーンオブハートのバンケットホール』というレストランには、「アンバースデイ・ケーキ」というメニューがある。これは「誕生日じゃない日、おめでとう!」という意味。ちなみにこれを誕生日の日に注文すると「バースデイ・ケーキ」になる

*2:シブヤ系というのは実はカマタ系で、東横線に乗って京浜地区からやってくるヤンキーどもの巣窟こそ聖地シブヤであるという説がある。彼らにとってシブヤは通学路であり、日常の一場面。ゆえに一見祝祭空間の輝きに満ちていながら、なんだかダラダラしている。その辺が消費の伸び悩む要因かと思われる。逆に原宿は週に1度とか月に1度という地方在住者が気合いを入れてやってきたり、修学旅行生が多いので、毎日が祝祭空間だとしてもそこにやってくる人々は毎日入れ替わる率が高い。ツチネコ氏ご推薦の、『シブヤ系 対 カマタ系』 馬場弘信を参照

*3:なんとなくSDガンダム『SD戦国伝』シリーズの頑駄無を思わせる。頑固の「頑」、駄目の「駄」、虚無の「無」。

マンバ考② シブヤの中心でアイを叫ぶ

BEATとはBE−AT、そこにいること、ときめいていることだ!
ジャック・ケルアック 放浪天使の歌』 スティーヴ・ターナー室矢憲治 訳

 
 実写版「美少女戦士セーラームーン」は社会不適応な少女の悲しき妄想劇といった趣で、鬼気迫るモノがある。トラウマ少女の闇を映しだすブラックな演出と、妙に生々しく痛みと狂おしさを倍増させるパンチラ。これはもはや、確信犯としか思えない。
 主人公はいつも黒猫のぬいぐるみを持ち歩いては語りかけ、電波のお告げによって自分がセーラー戦士であることに目覚める。そしてセーラー戦士はすべて半径数メートル圏内にいる同級生、あるいは憧れのアイドル。秘密基地はカラオケボックスで、お菓子は食べ放題、カラオケは歌い放題。おまけに冴えない少女たちが人知れず密室で髪を染めたり魔法少女モノのコスプレに興じ、正体不明の敵と戦い続ける。そして少女たちは「エナジー」という名の抽象的で目に見えないものを奪われ続け、やがて世界は破局を迎える……。 
 プロットをザックリ切り取れば、これはまるで80年代的な前世少女ブームと区別がつかない。*1
 
しかし見方を変えれば、この限りなく内向してゆく少女ユートピアは90年代には「デートクラブ」という形で実現していた気がする。お菓子を食べながらプレステやって、客からはマジックミラーで丸見えの部屋で女の子同士が交流する。カッコ良く言えば、『薔薇と退廃の日々』。そこで少女たちは「エナジー」ではなく性的な身体を捧げることでひとときの楽園を手にすることができたのかも知れない。 そんな少女の楽園願望がゼロ年代には都市伝説化してゆく。一緒にカラオケを歌うだけで一万円、部屋を掃除するだけで一万円、ご飯をつくってくれたら一万円…。やがてこの口承伝承は、リアルな形でバッドエンドを迎える。ジュニア世代の女のコがセンター街を歩いていると割のいいアルバイトを持ちかけらる。のこのこついてゆくとマンションの一室に監禁されて売春や臓器売買を強要されるという、あたかも「神隠し」の伝承をリピートし損ねたような事件がワイドショーによって報道された。*2
 
 実際、90年代からこの手のリスクは指摘されていた。強引に袋に詰められ男ふたりにバイクの座席にはさまれ山奥に連れ込まれてレイプされたあげく身ぐるみはがされて置き去りにされるとか、その類の実話がくさるほどあって、それが映画や小説のテーマになった。そんな中、ゼロ年代になってなぜ急に少女の監禁事件があれほど騒がれたのかといえば、相対的に見てセンター街に表層的な平和がおとずれたからではないのだろうか。それはもちろん≪繁華街をパトロールする自警団ガーディアンエンジェルス≫などのおかげではなく、価値観の多様化と過当競争の爛熟、不景気やテロの影響で人々は無感動になり、経済活動は滞り闇社会の流動も静まりつつあるせいだろう。なんせ歌舞伎町辺りのヤクザの主なシノギがカタギ相手の裏DVD販売だったりするのだから。
 
 もともとシブヤ系なんてのは幻想で、ビットバレーなんてのは本当に渋くて苦いだけだった。一時期、パルコのキャッチコピーに「シブヤは世界の中心」みたいなのがあったが、渋谷という街は実際には金のないコドモばかりが集まって、経済波及効果なんてほとんど期待できないという結論に、90年代が終わってようやく学者たちは気づいてしまったのだ。その時点で、何かが終わり、誰かが消えてしまったのだと思う。
 
 そこで渋谷の『第二章』がはじまった。大きな歴史で見れば、第何章になるんだかもはやわからない。そういえば『ビックカメラ』の2階にあるマクドナルドが急に90年代的な全面ホワイトとシルバーのチューブがうねったような上っ面ばかりののっぺらとした雰囲気に店内を改装した。他にも妙なレイアウトのカフェだかレストランだかわからないサイバーな感じの店が雨後のエスカルゴのように大量発生しつつある。時代に乗り遅れた何者かが、あわてて90年代を、あるいはバブル時代の輝きをリピートしているのか、10年サイクルの懐古趣味なのか理解に苦しむ。個人的には、そのチープさは好き。むしろ90年代には鉄条網に囲まれた生活をしていたので、そんな青春時代を取り戻せる気がして大歓迎ではあるが……
 
今の渋谷はテロの影響か、テレカ売りのイラク人が消えたくらいで、90年代以上に90年代的な風景に染まっている。HMVの一階も雰囲気がそんな感じだ。
 ここしばらく街から色気がなくなったと思っていたら、去年の冬くらいから若者のファッションがまた彩度を増してきた。それがマンバやセンターGUYたちだったのだと今になって気づく。ただその時は、本当に90年代の延長戦なのだとばかり思っていたのだけれど。

*1:かつて『月刊ムー』や『トワイライト』といったオカルト雑誌の投稿欄に、光の戦士たちがハルマゲドンに備えて仲間を探してますというような手紙が多数寄せられた。そして図らずも、日渡早紀の『ぼくの地球を守って』という前世をテーマにした少女コミックがそれを煽ってしまったという社会現象があったのだ

*2:2003年7月、渋谷に遊びに来ていた女子小学生4人が「部屋の掃除をしてくれたら1万円」というバイトに誘われ、そのままマンションに監禁された。少女の一人が脱走し110番通報を要請。警察がかけつけると少女3人は手錠でつながれ、別室では容疑者の男性が自殺していたという事件が発生した。ちなみに少女たちが監禁中に与えられたのはお菓子とジュースのみだった。「女児監禁事件」とか「プチエンジェル」で検索すると事件の経過がいくつかヒットする。食べ物を与えていた場合、監禁ではなく軟禁になるんじゃないかとも思うが、一般名詞として「女児監禁事件」が使用されているので、本文ではあえて監禁で統一してみた

マンバ考① 本気モードで☆乙女のロマンス

 別冊egg『manba』という雑誌が、かなりヤヴァい。
 一見、装飾華美なレイアウトに埋もれて見落としがちだが、彼女たちの言説は読みどころ満載で、サブカル者の妄想癖を加速させて止まないのだ。
 
 みんなマンバの本質を、最後の一点で勘違いしている。「どうせブサイクなんだろ?」とか「メイクとった方がカワイイんじゃないの?」というワイドショー的な見解は全くもって的はずれだ。彼女たちが唯一共有しているのは、「乙女のロマンス」に他ならない。しかも彼女たちは俄然最強のロマンチストだ。
 パッと見が軽く見えても交際歴5年のラヴな彼氏がいたり、「男ウケ? どんだけ〜???」と豪語して女同士の友情を育んだり、彼女たちの根本は90年代に一世を風靡した「瞬間恋愛系」的なモテとは対極のベクトルに向かっている。それはもはや僕に言わせれば、吉屋信子の『花物語』的な世界であり、大正ロマンから昭和初期にかけての少女小説の神髄である。そういえばマンバメイクと高橋真琴の少女画を見比べて欲しい。
 

提言論文 - かわいいマンバ
http://www.jmrlsi.co.jp/menu/report/2004/manba.html

◆真琴るーむ
http://www.macotogarou.jp/

  
 マンバの原色で俄然強メに盛った髪型と、高橋真琴描くところのボリュームあるお姫さまスタイルに花やティアラの装飾。マンバのネイルアートを流用しているというキラキラ輝く目元シールと、高橋真琴が少女の周囲に散りばめる花や水玉や星形や輝きを表現するホワイト。目を大きく見せるアイラインと、通った鼻筋。マンバメイクとは高橋真琴的な少女ロマンスの要素を顔面に凝縮した新たなる様式美に見えてくる。
 

 良かったコトん〜と。ナンパされない。キャッチされない。ガイコクジンに写真撮られる。エンコーの誘いもチカンも来ない。これってイイコトじゃん? だって私、ラヴな彼氏いるからそーゆーの必要ないし。あるイミ自分自身守れてるって感じ。
 
マンバ教祖☆かぁ〜たんインタビュー TEXT●MEGUMI WAGURI

 
 この防御力の高さはゴスロリのフリル占有率にも近いものがあるし、文学少年の前髪の長さにもリンクしていると思う。ブサイクだからモテないとか、マンバだからモテないのだという自分への言い訳ではなく、あえて積極的に自分へアタックしてくる男たちへのハードルを設けている。マンバは『美女と野獣』の美女ではなく野獣であり、『くるみ割り人形』のくるみ割り人形なのだ。
 見た目なんて作ればいい。素顔なんて関係ない。自然体が一番だなんて舌の根が乾かぬうちにやっぱり天然美少女でマスかいてるオトコどもに、真っ向から本音でぶつかっているのは不自然さをつらぬくゴスロリとマンバに他ならない。マンバに関してはその様式美が世間一般の審美眼から微妙にズレるので難しいが、あの華やかさはきっと素顔よりも120%魅力的だと思う。花魁が白粉を塗ったまま接客するように、ある意味それはブサイクな彼女たちなりの世間への接客マナーなのだろう。しかしそれは性的欲望のターゲットとしては機能していない。だからこそ、内面の貧困さ、内気さを含めて自分を受け入れてくれるオトコにしかなびかない。
 事実、ガングロの教祖☆ブリテリも、ゴングロ三兄弟も現役時代にはモテていない。その辺りがファッションを≪男にモテるためのツール≫として割り切っていたコギャルやそれ以前の女子大生ブームとは文脈が全く切り離されている。
 そして、そんな彼女たちのロマンチックに共鳴したのがセンターGUYであり、モリオなのではないか? センチメンタルなものを求める男女の妥協案がマンバなのかも知れない。同じ言語、同じ様式――宮台真司が『草の根の天皇制』と呼んだコギャルの構成要素のみを抽出して、まったく別の世代、まったく別の民族がギャル文化を乗っ取ってしまった。少女ひとりひとりの個性はソフトウェアで、マンバという形式はハードウェアなのだ。パソコンが空っぽの箱と揶揄された時代があったように、マンバというカラッポな文化はむしろ少女という傷つきやすく繊細なゲル状の軟体動物をインストールするにはうってつけだ。それはまるで羽ばたく前の蝶が閉じこもる、サナギの殻みたいなものである。 渋谷で見かけても怖くて遠巻きにしてたけど、なんだか仲良くなれそうな気がしてきた。 
 

 彼女らコギャル語はもっぱら首都圏で量産される。方言があって人口学的流動性が低い地方と違い、東京だと相手が何者なのか分からないので、自分と相手が同じ前提を共有することを絶えず演出する必要が出てくるからだ。
 同じ前提を共有するかどうか定かでない者同士が、特殊なシンボルを共有することで「同じさ」を演出し、「同じさ」の圧力に服する――これを「草の根の天皇制」という。コギャルに限らず、草の根の天皇制は、私たちの社会のすみずみに浸透している。
 
宮台真司 『援交から革命へ』

山手線という名のメビウスの円環で…

プレアイドルというのは、いわばアイドル予備軍のことだ。事務所に所属して地道にライブなどを行い、アイドルになるためのキャリアを積んでいく。ライブにはファン、というよりアイドルの先物買いに取りつかれたマニアたちが群がってくる。(中略)プレアイドルたちはアイドルとしての疑似体験ができる。事務所的にも、ライブ活動だけでそこそこの商売にはなる。
 
『新MPEG最強インディーズ』2003年1月号 「薄消しクィーン名鑑」

 
 プレアイドルという言葉がある。それは、地平の果てに未来を喪失した少女たちの残像であり、進化の道を閉ざされたガラパゴス諸島に棲息する歌声を奪われし人魚たちの総称である。
 
 今朝、満員電車の山手線でロリータを発見した。ゴールデンウィーク真っ最中とはいえ朝の列車は、脂ギッシュな背広姿のオヤジと、レジャー気分の親子連れ、そして無神経に背中の荷物を背後の客に押しつけるバカップルの混在するタチの悪い変則的な通勤ラッシュが発生する。そんな阿鼻叫喚の地獄絵図をバックにロリータがたたずむ光景……。
 淡いブルーのドレスに白黒ストライプのニーソックス、白いリボンを頭にのせて文庫本を読んでいた。ゴスロリではなく、ピンクハウスでもなく、ディズニー映画が生みだした変色の「アリス」とでも呼ぶべきスタイルだった。うろ覚えだが、原作に挿入されたイラストのアリスはもともと黄色い服を着ていたはずだ。
 その光景をボクはどこかで見たようなデジャヴにおそわれ、ふと立ち止まった。 フラッシュバックしたのは、秋葉原の路上で見かけたプレアイドルを取材した時のことだった。
 
 取材した少女の名は葉桐あかね。白いドレスに天使の羽根をつけ、魔法のステッキを持ってラジカセの伴奏に合わせて歌っていた。その格好のまま、群馬の山奥から電車に乗って週末毎に秋葉原に通っているのだという話だった。その話を聞いた瞬間、ボクの脳内には、山中を走る閑散とした私鉄の座席にちょこんと腰掛けた魔法少女の姿が今さっき見てきた光景かのように広がり、ドーパミンにも似た脳内物質が分泌された。
 
 きれいなドレスと可愛いアイテムで完全武装しているのに、無防備なほど化粧っけがないところにも歪んだ愛情が芽生えた。まさに彼女は「違和感」という名の諸刃の剣で現実を切り裂く侵略者だった。
 
 マンガやアニメやゲームの世界から抜け出したような、その姿――
 まさに僕が葉桐あかねやロリータやゴスロリ、そして大多数の不思議少女に対して抱くシンパシーはそこにあり、「非現実の具現化」は文明が成熟する上での過渡期にこそ浮かび上がる現象である。「空想されたモノは実現する」、「夢は現実になる」という言葉がある。それは微妙に間違っていて、空想されなければ何も生まれない。空想されたモノがすべて具現化するわけではないが、空想もされなかったモノは現実としての実態を持ち得ない。そしてゴスロリは空想され、ロリータは空想され、ストリートという現実社会の狭間から侵入してきた。 たとえば少女は山手線という名のメビウスの円環の中をグルグルとどこにも辿りつけずに廻り続ける。彼女は進化の道を閉ざされた無精卵であり、不毛の大地に咲いたペンペン草であり、アスファルトに落ちたタンポポの綿毛であり、飛べないペンギンの翼である。