犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

バモイドオキとゴスロリ少女革命

 ゴスロリという文化は世間が思っているほどに底が浅く泡沫的で一過性の、貧弱な文化ではないと僕は思っている。確かに発端は単なるゴシック趣味とロリータ趣味の融合であり、異種間に派生した他愛もないキマイラでしかない。だが、本来ならゴスという思想体系が持っていたとされるマイナスのベクトルに走らざるを得ない≪悲しみ≫という感情を、≪愛らしさ≫という擬態によって覆い隠しポピュラリティーを獲得する、自己浄化の作用を持っているのではないだろうか。
 
 本家本元であるゴスが世間から排除される要因でもあったサタニズムをためらうことなく捨て去り、ふわふわと宙に舞うかの様な無神論的世界、例えば包帯をぐるぐる巻きにしたテディベアや引き裂かれたシーツの波間で悪夢と戯れる≪終わり無き日常≫の延長としての蜜月を謳歌する毎日。キラキラと輝くプリクラの世界に信仰など必要なく、彼女らには異性間の恋愛に対する先行投資などという概念は存在しない。偶像ではなく内面の豊穣を願う思想、それがゴスロリなのだ。つまり外来の神を共有するのではなく、内面に宿った少女神を崇拝する。それは例えば酒鬼薔薇少年の心を闇に閉ざしたバモイドオキ神のごとき修羅である。しかしその荒ぶる神をゴスロリ少女は、「欲望に素直であってはならない」という不文律を持つロリータという思想で制御しているのだ。
 
 彼女たちは反体制的な革命分子にして、優等生であり、世間との折り合いを模索し続ける流浪の民なのだ。その証拠に、常に街並みに溶け込もうとはせず核汚染物質のごとき違和感を放射しながらも、街や学校、職場といった公共空間に踏みとどまる。そして決して美しくはない世界と対峙し、『血と薔薇』の咲き乱れるロマンスを夢みるのだ。
 
 着飾ることで姿勢を正し、教養を身につけることで内面を磨く。ただ単にその、知性を磨くための研磨剤、とっかかりが装飾華美でグロテスクなゴシックという文化体系であったというだけである。仮に天使たちの住む天国≪ハライソ≫がこの世に実在したとして、愛に満ちた優しい人々ばかりで争いの無い世界など、誰が行きたいと願うだろう? 不純物ゼロの純水に、サカナは生きることができないのだ。醜悪な世界をあえて彩る傲慢さ、親や教師の欺瞞を暴く狡猾さ、彼女たちにとっての≪フリル≫とは、そういった既成概念に抗う強さを身につけるための防御壁なのだ。
 
 ゴスロリサブカルチャーではなく、カウンターカルチャーである。傍流ではなく対抗文化なのだ。それはたとえば≪学校≫という名の束縛に反旗をひるがえしておきながら、実は家族と学校が大好きで、スジを通さずワガママを通すばかりのヤンキー文化に対する保守反動である。彼女たちが反抗しているのはメインカルチャー(あるいはセンターカルチャー)ではない。軟弱なうわっ面だけのサブカルチャーあるいはカウンターカルチャーに対するさらなるカウンターなのである。だからこそ、居場所を見つけられずに浮遊せざるを得ない。ゴスロリが持つ歪みやねじれは、そこから生まれている。
 
 ゴスという危険思想を緩和するために、ロリータ的要素は存在する。ならば果たしてゴスとはいかに危険で、実際に聖職者たちが眉をひそめるほどに厄介なシロモノなのか? その話はまたの機会に。とりあえずロリータに関する全要素は、以下に引用する嶽本野ばらの言説にこそすべてが盛り込まれていると思う。
 

 生物の授業の最中、先生はこう教えてくれました。「生命は全て、丸い形から始まる。卵という形を思い出せば、理解出来るね。抵抗力のない個体は外部からの危険を逃れる為、球体を指向する。物理的にも精神的にも、生物の攻撃本能は球体に対して減少する仕組みになっている。丸い形、つまりそれは、もっと寓意的にいうならば可愛い形といっても間違いではない。(略)」
 ロリータはそんな法則に従おうと思いました。大きなリボンは蝶々の擬態。ぬいぐるみに同化し、解読不能な玩具の振りをして生きてゆくのです。それこそが、ロリータを残酷な世界から守ってくれる唯一の方法であったのですから。
 
『それいぬ』/嶽本野ばら