犬惑星

『ゆるキャラ論』著者・犬山秋彦のブログ

むしろ昨今のオタク趣味は、合理的判断の結果なんです

 
 
痛いニュース(ノ∀`):若者の車離れは「家庭用ゲーム機がいけない」とトヨタ自動車幹部
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1327270.html
 
 
いや、そうじゃなくて…
日本人はむしろ合理的でお人好しだからなんじゃないかと思う。
ある意味アタマが良すぎて身動きできないというか。
 
僕は大型免許持ってるけどクルマには乗らない。
それというのも第一の理由はリスクを取りたくないから。
まず自分が運転がヘタだというのもあるけど、たとえどんなに巧い人でも貰い事故からは逃れられない。
ヘタな自分が運転するのは公道で刃物を振り回すようなものだという自覚があるし、そんな刃物を振り回した狂人の群の中に突っ込む度胸はない。
 
あと、クルマはコストと時間など無駄も多い、つまり「非合理」だから。
昔よく先輩のクルマに乗せてもらって遠出すると、渋滞に巻き込まれた。
そうすると一時間や二時間のロスではない。
半日くらいはアッという間に無駄になる。
電車だったらとっくに家についてるよという、あの不毛さが耐え難かった。
かといって、自分だけさっさと降りて帰るワケにもいかない。
 
今なら都心に住んでいるので交通の便は鉄道でまかなえる。
クルマでしか行けないところもあるし、ドライブの楽しさも理解はできるけど、むしろ嗜好品や娯楽としてだったら、コストが掛かり過ぎる自家用車よりもタクシーを選ぶ。
タクシー乗りまくったって、今の生活だったら自家用車を維持するより安い。
 
僕の場合、クルマ社会の恩恵は充分に受けているし、クルマは必要だと思うけど、自家用車は要らないという論理。
 
ニュースのタイトルにあるように「クルマ離れはゲームのせい」というのは間違っているとおもうけど、「クルマ離れ」と「ゲーム好き」が表裏一体なのは確かだと思う。
最近、にわかにライトオタクが増えているのは、みんな合理的になっているからだ。
ゲームだったら、ほんの数千円で何十時間も遊ぶことができる。
娯楽としてはこんなにコストパフォーマンスの高い遊びは他にない。
休日の家電量販店に行くと、ゲームコーナーに老若男女がひしめいていたりする。
昔、オタクといえば他人が価値を見出さないものに対し無尽蔵に金をつぎこむ「非合理」な存在だった。
オタキングが「オタクは死んだ」と言う時のオタクは、まさにこのタイプを指している。
しかし今のライトオタクは「合理的」な判断に基づいてオタク趣味を選択しているのだ。
むしろ安上がりでお手軽だからこそ、アニメやゲームにハマるのだ。
だから金は出さないし、マーケットは熱いのに儲からない。
 
現代人は合理的だからこそ、恋愛に奥手なんだというのも、なんか昔「非モテ」関連の議論でさんざんやった話な気がする。
恋愛はリスクが高いわりに見返りが少ない。
結婚は普通に生きる上で必然性が無い。
特に男性側にとって。
 
女性はいまだに「結婚して子供を産まないと一人前じゃない」という迷信の世界に生きている。
しかも酷いことに、その迷信は政治的な意図をもって押しつけられている。
最近顕著な流れは、「恋愛」と「結婚」は別モノ、だから「恋愛の延長ではなく合理的な判断に基づいて結婚しましょう」という論理。
「婚活」もこうした識者の先導によって煽られている。
 
しかしセックスしたいなら風俗の方が安上がりだ。
承認されたいなら恋愛より仕事の方が、金と承認の一挙両得だ。
癒されたいならペットを飼った方が手っ取り早い。
犬を飼えない住環境だったらDSで『ラブプラス』をプレイすればいい。
いやむしろ、普通にエロゲーでいい。
虚しいというのなら、恋愛だって同じくらいに虚しいだろう。
恋愛至上主義者というのは、単に中毒のターゲットが異性であるというだけなのだから。
 
結局、あとは結婚に何が残っているかというと「相互扶助」という面しか残っていない。
しかし女性が一方的な援助を求める限り、この「お互い様」という認識の上に成り立ったシステムは起動しない。
養われたいけど介護はしたくないというのなら、嫁に使う金を貯蓄あるいは投資して老後に備えた方がよっぽど合理的だ。
 
そもそも結婚の果てに構築される「家族」の価値が暴落している。
家族は重荷でしかなく、子供に未来を託すのは酷というモノだろう。
かつて子供は労働力だった。産んで育てれば見返りが期待できた。
しかし今や、数千万という教育費をかけて大学を出したところで就職は不確実だし、将来自分を養ってくれる望みは薄い。
 
はっきり言って世間が「結婚」と「出産」を推奨するのは国策でしかない。
戦時中に「産めよ増やせよ」で富国強兵したのと同じ。
たしかに人口が増えれば簡単に景気は回復するだろう。そんなもんだ。
しかし少子化対策を叫ぶ政治家がすでに責任を放棄しているのだから、もう歯止めはきかない。
あとはもう、少子化対策という名の利権に老人達が群がるだけだ。
それくらいの利用価値しかない。
 
ちなみにそこまで「家族」というものに対して否定的な僕が、なぜ結婚したのかといえば、世間一般の認識とは別の部分に「合理性」を感じたからに他ならない。
「生活」と「趣味」にプラスして、「仕事」の面でも支えてくれる相手だったからだ。
ある意味、昔で言う農家の嫁とか、家族経営で商店を営んでる感じに近いものがある。
 

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この不況の根源は、みんながそこそこ賢くなってしまったからというジレンマがある。
みんな「企業には騙されないぞ!」という生活防衛に走っている。
だけどその「知のレイヤー」はまだ低い次元でしかないということには気づいていない。
人間にはもう一つ、見逃せない習性がある。
「本当の事より、説得力のある嘘を信じてしまう」というオカルト思考があって、たいていの合理的判断の裏にはオカルトが待ち受けている。
だから「良かれと思ってやった事」が裏目に出て損をしてしまうのだ。
まさに今の状況は合理的判断に基づいてオカルト的な決断に達してしまった結果だろう。
かなり唐突かも知れないけれど、インフレよりもデフレを好む国民性というのがその最たるものかも知れない。
結局、個人が合理的判断で行動した結果、金銭の流れは滞り、深刻な悪循環をもたらしている。
だからといって、自分は損をして社会に貢献しろと強要するのも不可能だ。
 
オールニートの時に飯田先生が言っていたと思うんだけど、お金はコメのように腐らないからみんな貯め込んでしまう。
だから緩やかなインフレが必要なのだというようなことを言っていた。
インフレだと、貯め込んでいるだけでは金銭の価値は下がってしまう。
だったら使ってしまった方が得だという合理的判断が働くから。
 
合理性を餌にして誘導するという戦略は、ディズニーランドが巧いと思う。
思想の世界ではアーキテクチャーが話題になってるけど、ウォルトは50年以上前からそれをやっている。
 
これからの商売は、バカな消費者を騙すんじゃなくて、消費者が合理的判断に基づいて動いた場合に自分も利益を得られるような仕組みを作るしかないんだろう。
そうでなきゃ、あとはもう一度日本人に退化してもらって一億総白痴化してもらうしかない。
まあ、実際にやるなら、そっちの方がよっぽど簡単だし…
 
もしかしたら実際に政治やメディアや企業は、僕たちに「退行」を求めているのかも知れない。
考えてみると『崖の上のポニョ』も、おバカブームもケータイ小説ブームも、「バカになれ」というメッセージだった。
後先考えず行動しようぜ! ロジックよりも欲望に素直になろうぜ!
借金してパチンコやって、セックスして子供増やそうぜ!
みたいな…
まあ動物的に正しい事って、世間に結構受け入れられやすいからね。
あと残る景気対策は宗教と戦争くらいか。
 

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◆追記(200.10.29)
 
おそらくこのエントリーだけを読んだ人にはわかりにくい部分があるので、捕捉でリンクを貼っておきます。
すべて個人的な妄想です。上から目線ですみません。
 
「人は真実よりも、説得力のある嘘を信じてしまう」という話はこちら↓
 
セカイ系な親父の鬱な話
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20090625
 
◆集団ストーカーの恐怖・前編
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20090628
 
◆集団ストーカーの恐怖・後編
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20090629
 
 
 
なぜポニョを「バカになれ」というメッセージと捕えているのかという理由はこちら↓
 
◆ヤンキー回帰としてのポニョ
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080817
 
<上記へ至るまでの過程>
◆本当は怖いポニョの都市伝説
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080803
 
◆本当はあまり怖くないポニョの都市伝説
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20080805

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■追記2010.02.03

◆ゆとりの次は「さとり世代」?
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1002/02/news060.html 

なるほど。若者の合理性は「さとり」近い。
宗教的な解脱も、本人の思い込みによるところがあるし。
他人からどう見えようと、本人が「悟った!」と思った瞬間に悟りは開けてる。

■追記2010.12.08

◆【社会】 「クルマ買うなんて、バカじゃないの?」…モノを買わなくなった若者=「嫌消費」世代、仲間にバカにされることを恐れる
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1291788311/

有刺鉄線の中のドン詰まり感

 

被告弁護側は冒頭陳述で「少年は自衛隊を逃亡し、隊にも実家にも戻れずに死のうと思い、現実から逃避した」と述べた。
 
■「中学の時から殺人に好奇心」 19歳元自衛官の被告
http://www.asahi.com/national/update/0119/SEB200901190012.html

 
「中学生の時から考えていた『人を殺したらどういう気持ちになるか』という好奇心を満たそうと思い、犯行に及んだ」という供述も重要だけど、上記の部分もかなり気になるところ。
それこそ殺人に興味あるなら、自衛隊に所属してた方がチャンスはあったじゃんという気がする。
戦場で殺せば英雄だったのに。そうしたら充実感だってあったかも知れない。
 
自分の場合は自衛隊セーフティネットであり、人生最後のチャンスであり、ここで挫けたらドン詰まりっていうのがあったから必死だったけど、それと同時にそこで挫けていたら本当に行き場が無かったんだろうなとも思う。
思いっきり内向的で学生時代に運動もしていなかったから、毎日つらかった。
今にしてみればよく脱柵しなかったなと思うし、同じ営内班のメンバーやベッドバディのT君や思いっきりミリタリーマニアでパソコンオタクのM君たちがいなかったら、続いていなかったかも知れない。
そう考えると、自分があそこから這い上がれたのは「やる気」や「実力」ではなく、単なる「運」でしかなかった。
 
実際に脱柵したヤツは何人かいた。
その度に班長は「どうせ逃げるなら温泉地に逃げてくれよ。捕まえるついでに経費で温泉入れるから」と笑いながら言っていた。
 
そういえば、教育隊の物干場で洗濯物に放火されるという事件が立て続けに起き、警務隊が捕まえてみたら「オレは左翼だ」と名乗る新隊員だった事がある。
でも、左翼というのは言い訳で、本当は毎日の訓練がつらくて事件を起こせば除隊されるんじゃないかと思ったらしい。
親から妙な期待を掛けられて、今さら自分から辞めたいと言い出せなかったのだ。
はた迷惑な話だけど、気持ちがわからないでもない。
 
自分にとっては自衛隊は学校や家庭よりも安らげる唯一の場所になったけど、あの共同生活で孤立したら、本当に死ぬしかないだろう。
そのせいか自衛隊の自殺率はけっこう高い。
ちょくちょく自分の部屋の上の階とかで首吊りとかあった。
 

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昔はよくバイトや無職で将来の見通しが立たないという若者を見かけると、「27歳までなら自衛隊に入れるぞ」と冗談交じりに勧めていたのだけれど、誰一人自衛隊になんか入ろうとはしなかった。
たとえ将来に希望がもてなくても、彼らにとっては娑婆での生活と自衛隊を比べたら、断然娑婆の方が楽だったのだろう。
 
それが、最近はちょっと違うのかなという気もする。
これは自衛隊時代の後輩から聞いた話だが、就職先の同僚が会社を辞めるというので自衛隊を勧めたら喜んで入隊してしまったという話を聞いた。
さらに、こないだロフトプラスワンのイベントの帰り、終電間際の山手線の中でジャージ姿に大きなスポーツバッグを抱えた高校生くらいの少年二人組が、「自衛隊っていいよね。毎日運動して、銃が撃てるらしいよ」という話をしていて世の中変わったなあと思った。
雇用のない地方ならともかく、東京のド真ん中でそんな台詞を聞くことになろうとは。
 
まあ、腐っても国家公務員だからなあ。
アタマに「特殊」が付くけど。
 
 
■『ワーキングプア死亡宣告』草稿 7/7
http://d.hatena.ne.jp/dog-planet/20081116
→「将来の夢は公務員」
 

ワーキングプア死亡宣告 (晋遊舎ブラック新書 13)

ワーキングプア死亡宣告 (晋遊舎ブラック新書 13)

オタクと格差と絶望感

 
秋葉原の無差別殺傷事件で、被害者の方と自分の本名がかなり似ていた為、心配されてしまった。どうも周囲からは秋葉原に通っているというイメージを持たれているらしい。
 
僕はオタク趣味というのはもともと一種の精神疾患だと思っている。だいたい、そういう「危ないヤツ」という目で見られた最後の世代だからこそ、痛感する。宮崎勤の事件以来、オタクは理論や優しさを振りかざして自己防衛してきたけれど、やはり内面に鬱屈したものをかかえているからオタクになるわけで、それが良い方向に働くこともあれば悪い方向に働くこともある。鬱屈した精神が完全悪かといえば、そんなこともなく、劣等感がスプリングの役割を果たして大きく羽ばたけることもある。だいたい大成する作家やお笑い芸人の何割かは引きこもりや生活上何らかの問題を抱えていたりする。
 
オタク趣味を持っているから危ないのではなく、不安定な精神状態とオタク趣味との親和性が高いのだ。まず人との交流は最小限で済むし、趣味に没頭している間は外的なストレスも極力減らせる。執着心のようなものを満足させる方向にもいけるし、分裂症気味に好みがあちこち分散しても、それはそれでアリな世界だったりもする。ネット環境の充実で、さまざまなコストが下がっているから貧乏でも時間に余裕さえあればオタク知識の補充には事欠かない時代になりつつある。
 
自分が自閉気味で、学校はもちろん家族とすら口をきかなかった頃、図書館に引きこもることで何か現実世界で遂げられない願望の実現や成長を補おうとしていた。社会的なものや肉体的なスキルでかなわないから、せめて目に見えないものであがなおうとした。それは一歩間違えば、今でいうスピリチュアルな世界だった。酒鬼薔薇少年に憧れ、自己顕示欲の発露としての少年犯罪を夢見て、鬱屈したものを抱えながら、心地よいコンテンツを消費し続けた。
 
オタク趣味は一種の精神疾患であると書いたけれど、心の不安定さがすぐに犯罪に結びつくわけでもなく、かといって犯罪を犯さないという保障があるわけでもない。もちろん、通常よりもリスクは高くなるだろう。それくらいの「あやうさ」はオタクに限らず、どこにでも転がっている。ギャンブルや貧乏だって、危ういし、金持ちには金持ちなりの「あやうさ」があって、インサイダー取引なんてオタク・コンテンツの消費以上の誘惑だろう。
 
オタクと一括りにするのがそもそも誤解のもとだ。岡田斗司夫が「オタク・イズ・デッド」と言ったとき、萌えや世代論に目が向きがちだったけれど、実は格差の問題も大いにはらんでいた。
僕が十代の頃はまだオタクやマニアになるには辛うじて膨大な資金が必要だった。マンガやゲームやCDをコレクションするには金が必要だし、ある意味子どもが真のオタクとして成長するには親の収入による格差が大きかった。それが絶望的なまでに越えがたい壁であり、オタクを自認する人々に対するコンプレックスの源だった。僕はオタクに憧れ頑張ってみたけれど、結局なれず終いだった。オタクというのはかつて、親の金で大学に行けるような富裕層の子どもたちが自称する一種の特権階級だった。
けれど、今の若い世代は、知識の蓄積くらいだったら動画投稿サイトや2ちゃんねるのダウンロード板で補完できる。たしかに情報は一次情報に勝るものはないから、直接人から聴くのが手っ取り早いし、幅広い人脈というのは欠かせないが、人間同士が直接郵便やオフラインでビデオテープの貸し借りや交換をしていた「1対1」の時代に比べて、一人の人間が無数の人間に情報を発信したり、ネット上に溢れる無数の情報をチョイスすることでたやすく手に入れられる時代の社交性スキルというのは低く見積もられても仕方がない。しかし、格差が狭まることで精神的に救われた僕のような人間は少なくないと思う。
要約すれば、かつてオタクは資金の潤沢なブルジョアジーの趣味だったが、今は金銭の有無よりもコンテンツの消費にどれだけ時間を費やせるかという問題になりつつある。そうなれば、金にも困らずヒマもあるというニートのような人間にはかなわない。それに気づいてしまった時、オタク批評的な世界に不毛さを感じてしまった。
 
ちょっと前に大量消費するオタクの経済効果は数千億円という話があったけれど、それを支えていたのは激安でフィギュアの生産を請け負う中国の工場だったり、ほとんど中毒症状のような状態で脊髄反射的にグッズを買いあさる人々だったりして、単純にオタク・エリート主義や未来を楽観できるようなものではなかった。その膿が、去年末から今年にかけて一気に吹き出した感がある。
ワーキングプアサブプライムローン問題も食糧危機もエネルギーや環境に関する問題も、実は無縁い。オタク文化を支えているのはたとえば、ファスト風土関連の記事でも触れたように、効率化の代償として失われてゆく生活の安定だったりする。単純に言えば、良い物を安く買える代償として収入は減り、他人と関わることを避けながら暮らせるくらい豊かで便利になる一方で、目には見えにくい搾取構造のようなものが完成した。
かつては不幸な人が増えれば、心を病んだ人が増えれば増えるほどデパートが儲かると言われてきたけれど、今は低所得層にオタク趣味が浸透したおかげで不幸な人間が増えるほど、病人が病人にコンテンツを提供しながら自己増殖的にオタク文化が拡大してゆく。オタクに限らず、昨今のホストブームなんかも似たようなものだし、貧困ビジネスなんかもそうだ。不幸な人間を食い物にしてビジネスが成立する一方、そこから搾取する人間たちも決して幸せそうではないし、本当に幸福な人たちなんてどこかにいるのだろうか? 辛うじて今まで、日本人は全般的に幸福だったし、その幸福がグローバル化によって世界に分散しつつあるのかも知れない。しかし、それによって他の誰かが幸福になっているかといえば、近視眼的には中国などの経済発展があるけれど、それすら長期的に見れば明らかに危うい。明らかに「生きること」に直結するようなスキルに欠ける人間は生きづらくなっていて、そういう意味で豊かさと余裕を失いつつある日本でオタク趣味を自己のアイデンティティとしているような人々はこれから一層、息苦しくなっていくだろう。
世界はかつて村上隆スーパーフラットと名付けた状態とは別の意味でフラット化し、それにともなって日本という国はそれまで上げ底されていた部分をとっぱわれてしまった。かつて豊だったこの国のモラトリアムが終わって、だけど僕たちはまだ遊び足りないとダダをこねているだけなのかも知れない。
 
結局、オタクが悪いのではなく、オタクは不幸なのではないかという気がしてならない。アニメやマンガやゲームがもたらす感動や快感は素晴らしいし、それは人生の慰めにはなるけれど、それ自体が人生ではない。あくまでも人生の潤いであって、消費に命を賭けるなんて苦行以外のなにものでもない。
ワーキングプアネットカフェ難民ニート問題を取り上げるとき、彼らが社会的な被害者なのか、あるいは本人の甘えなのかに焦点があたる。しかし、どちらの意見にも一理ある。ただ普遍的に言えるのは、やはり彼らは不幸だし、僕らは不幸だ。なぜなら、これまで弱さを許され、強さを身につける機会を自ら放棄し続けてきたのだから。オタクもサブカルもアングラも、あらゆる若者文化というものは、あえて幸福から遠ざかることでしか、自分に言い訳できない側面をもってきた。
 
人間は、幸せになることでしか癒されない。それを宗教やギャンブルやオタク趣味や恋愛で癒そうとしても、いつかボロがでる。しかし、今の世の中の流れでは、明らかに幸せの代替え品として、小さな不幸ばかりのニセモノめいた幸福を売りつけるようなビジネスばかりが氾濫している。
自分が犯罪を犯さなかったのはなぜだろうと、いつも事件が起こるたびに思う。自分自身の能力の無さや、家庭環境、いろいろなものに不満はあったし、いつも心にナイフを忍ばせていた。実際に家出してしまったというのは良い方に働いたのかも知れない。だけど、やはり極限状態の絶望を回避できたからだ。
 
今回の秋葉原の事件と並び称される戸越銀座の通り魔事件、土浦の荒川沖の事件など、明らかに自分自身がかつて抱え込んでいたものと共通するものを感じてしまう。それは、自分自身の力で生きる事への自信のなさと、自暴自棄だ。
特に戸越銀座は地元で、僕自身も決して無関係ではない。あの不幸な事件は同時に、商店街の人々の連携がお客さんを救い、日頃の防犯意識が世間に喧伝されるきっかけともなった。しかし、本来ならばもっと前段階で食い止めることがでなかったのかと、少なくとも僕は悔恨の念みたいなものを抱き続けている。異質な者を排除するのではなく、受け入れることで犯罪を未然に防ぐことはできたなら、それが一番理想的なわけで、それは自分がやっているキャラクターやイベントだったり、もっと身近な地域社会や家庭の課題なのかも知れない。
確かに犯人は凶悪だし、その異常性は我々にとって脅威だ。しかし、彼らをどうにか救わなければ、自分自身の生活がさらに脅かされる。これ以上不幸な人間が増えれば、当然自暴自棄な人間は増える。人を殺さないまでも、持てる者から略奪したり、芥川の『羅生門』みたく弱者同士が奪い合うことになるかも知れない。少なくとも小市民的生活は脅かされる。他人の不幸によって、自分の幸福が脅かされるのだとしたら、それはもう無視できないだろう。福祉や慈悲の精神などという偽善ではなく、もっと利己的に考えてみても、答えはひとつだ。みんなで幸せにならなければ、意味がない。自分のためを思うなら、他人のことを考えざるを得ない。
 
すべての人が幸せにならなければ、本当の幸せなんてあり得ないというような意味の事を宮沢賢治が言っていたけれど、それこそが貧困化してゆく世界で生きる術なんじゃないかと思う。大きな視野をもって、利己的で効率的に思考すると、皮肉なことに偽善めいた結論が導き出されてしまう。

デコリーナ 〜胡桃の中の理想宮〜

 近頃、携帯電話をはじめ身近な小物・家電に100円ショップなどで買った薔薇や宝石などをデコラティブに飾り付ける「デコキラ」や「キラデコ」と呼ばれるライフスタイルが若い女性の間で急速に広まっているという。
 
 もともと「デコ電」と呼ばれる文化があった。
 これはおそらくネイルアートの延長線上に発展した文化なのではないかと想像できる。爪の表面に光沢のあるマニキュアを塗り、その上から宝石や花柄などの装飾をほどこす。我が肉体のミクロコスモスに小さな箱庭的理想世界を作り出す行為こそ、ネイルアートの醍醐味なのだと思われる。通勤電車の中でOLが自分のネイルに惚れ惚れとして笑みを隠せないといった姿を見かけることも少なくない。
 あたかも自分のケータイを拡張したネイルのごとく見立てて、そこに装飾華美なデコレーションをほどこす。その飾りはやがてマンバなど一部の少女たちによって、顔にまで侵蝕していったこともあった。彼女たちがネイルシールをほっぺや目の下などに貼り付けていたのを思い出す。
 
 やがて、そうした「デコ電」が技術的な発展を遂げるとラッピングやLEDを駆使してイルミネーションをカスタマイズする方向に向かう。専門の業者もあらわれ、繁華街や観光地などに出店しはじめた。しかし、ここまでくるとややアキバ系といおうか、デコトラ的ヤンキー趣味といおうか、技術力とマニアックさが評価される男の子的価値観が優先されるようになる。
 
 一方、女の子の方はもう少し執念深く、恐ろしいほど偏執的になってくる。こちらは何百個という宝石を手作業で接着してゆくような、技術力よりも根気が評価される世界であり、手編みやレース、刺繍などに近い。根気の上に成立した技術力が称賛されるのだ。いわば“デコリーナ”というのは偏執狂的な倒錯世界の住人である。
 
 彼女たちの完成した作品を見て、これは何かに似ていると直感した。思い出したのは、シュヴァルの理想宮やスワンベルクといった、かつて澁澤龍彦が愛したマニエリスムからシュールレアリスムに至る系譜である。
 こつこつと小石を拾い集めては自宅の庭に奇妙な城を築きあげたシュヴァルツ。宝石や貝殻や時計の部品、レースなどを組み合わせてビロードや絹の上にびっしりと配列するという手法を生み出したスワンベルク……。それら奇想の芸術家とデコリーナたちの作品に共通するものは、一歩間違えば「俗悪」や「悪趣味」と言われかねない“過剰さ”にある。
 
 特にスワンベルクは動物・植物・鉱物など自然界に存在するあらゆる領域のマテリアルをまんべんなくキャンバスの上に配置し、万華鏡をのぞいた時のめまいにも似た恍惚感を鑑賞者に与えた。まさにキティ・薔薇・宝石を並列的に配置したデコリーナたちのデコ電やその他の作品に通じるものがある。
 
 スワンベルクは女性の肉体をテーマに多くの作品を残したが、デコリーナたちは自身が女性であるため、女性を描く必要がない。スワンベルクが描こうとした「愛と美」を、彼女たちはすでに体現してしまっているのだ。さらに彼女たちの創作意欲は、本能や初期衝動とダイレクトに直結している。だからこそ、周囲に人造美の違和感を放ちながらも、彼女たちの作品群はどんな前衛芸術よりも過激で原始的な美しさに満ちている。
 
 例えばゴッホヘンリー・ダーガーのなどのアウトサイダー・アートがなぜ評価されるかといえば、本能や欲求のままにプリミティブな衝動をそのまま表現しているからだ。だとしたら“キラデコ”はまさに少女の根元的な表現であり、商業的な付加価値のついたアートとは別次元の限りなく原始的な芸術と呼べるかも知れない。
 

参考リンク

Yahoo!辞書 - デコリーナ
http://dic.yahoo.co.jp/newword?index=2007000543&ref=1&category=6

◆温かな桃〜小鶴の寝床〜 | 新語探索 「デコリーナ
http://nedoko.ko-du-ru.com/?eid=376067

◆キラデコ☆ボールペン☆ : 派手可愛 キラ可愛 ネイルサロンCrea
http://www.brand-crea.com/blog/2007/05/post_403.html

◆キラデコ|まりぃの気が済むままに。
http://ameblo.jp/iv-dg/theme-10004947826.html

◆Antique Touch Rose ☆デコキラ日記☆
http://ameblo.jp/antique-touch-rose/

◆カスタムアール
http://www.ledcom.jp/page/sample.html

◆☆★☆ ネイル スタジオへ ようこそ ☆★☆ - Yahoo!ショッピング
http://store.yahoo.co.jp/nail-studio/

◆そこまでやるか?“装飾ケータイ[デコ電]”最前線 - 日経トレンディネットhttp://trendy.nikkeibp.co.jp/article/tokushu/gen/20060302/115662/

                                            • -

◆スワンベルク、澁澤龍彦、北欧音楽 - じじいのファックのほうがまだ気合いが入ってるhayatoの日記
http://d.hatena.ne.jp/nubonba/20071017

シュヴァルの理想宮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%81%AE%E7%90%86%E6%83%B3%E5%AE%AE

◆品川まちかどブログ | 路地裏のノイシュヴァンシュタイン城
http://shinagawa.jugem.jp/?eid=67

ファスト風土批判に対する批判への反論

◆1.僕たちの好きなファスト風土
 実はファスト風土というのは、今すぐ何もかも危うくなるような緊急の問題ではない。 
 むしろ現状、世の中はファスト風土化することで快適になってゆく。誰だって個人商店を何軒もまわるより、大手スーパーでまとめ買いした方が楽に決まっているし、安い値段で新品同様の商品が手にはいるなら、そっちへ流れる。早く・安く・おいしいモノを身近で食べられるなら、わざわざ高級レストランなんて必要ない。
 
 だけど快適な環境を低価格で手に入れることで、実はめぐりめぐってある層より下の人々の収入は低下し、階級は固定化し、将来的な生活の見通しがつかなくなる可能性がある。実際にファスト風土化の進んだアメリカではその地盤沈下があらわれはじめている。「このままでは地方がアブナイ!」という三浦展の「ファスト風土批判」はそこにある。だからこそ、彼は「街の在り方」以上に「新しい雇用の在り方」について語っているわけだ。マクドナルドを増やしちゃいけないとか、開発をしちゃいけないというような話はあまりしていない。フリーターとかニートが増えつつある現状の裏側に何があるのかを読み解こうとした結果が「ファスト風土」なのだ。企業の雇用形態と若者の無気力には関連性があるんじゃないかという指摘が彼の「下流社会」という解釈だし、意欲の高さが部落差別や貧富の差とはまた違った「新しい階級」を生み出しつつあるというのが最近の論調だと思う。
 
 ただ、なんで一部の人々が三浦展を目の敵にするかっていうと、そういう下流化の影響を受けることもない広告代理店出身で小金持ちの三浦展が安全圏から「それ見たことか」と呆れ顔で指摘しているからであって、「お前に言われたくねーよ」という単なる感情論。相手がガンコ親父だとその理屈がまっとうでも聞く耳もてないのとまったく一緒。
 
 
◆2.ジャスコに育まれる愛郷心 
 今さら「ジャスコじゃなくて地元商店街で買い物をしろ!」みたいな強制をしたって誰もそれに従う人間などいない。
 
 むしろファスト風土化によって住み心地が少しでも良くなるなら、地方にマックやツタヤは必要だし、そこに住んでいる人たちが少しでもその土地を好きになれるならジャスコやパチンコやシネコンは必要だと思う。ただ注意しなければならないのは、大企業に倫理なんて求めるべくもない。だからそこの部分を引き受けるのが家族であって地域コミュニティなんじゃないかという話。誰もが快楽を貪って責任を他人になすりつけあっているうちは、何もかもが崩壊してゆくばかり。ファスト風土が悪で、下町風情が正しいなんて話ではないし、ましてや他の街が荒廃して自分の街だけ発展すればそれでいいなんて誰も思っていないはず。

 倫理も豊かさも、その両方を行政や企業に求める甘えがこれまで多少なりともみんなにあって、自分の暮らしを他人任せにしていると、後で痛い目にあいますよという忠告が「ファスト風土批判」なのではないかと僕は思っている。
 だから、コンビニもファーストフードもツタヤもブックオフもあっていいし、それが生活を豊かにするのならば大いに活用するべき。ただしその豊かさは未来を切り崩して得たものなのだから、足元をすくわれないように心構えが必要だと言うこと。「おいしい話にはウラがある」という極一般的な正論だ。
 
「まちBBS」なんかを拾い読みしていると、「自分の街に欲しい店」はだいたいジャスコとツタヤだったりする。僕自身、つねづね大崎にジャスコとツタヤがあったらいいのにといブツクサ呟いている。『木更津キャッツアイ』のモー子も「木更津にスタバができますように」と神社でお祈りしていた。
 
 実はファスト風土を礼賛することはまったくカウンターではなく、むしろ多くの人々がそれを望んでいるからこその危機なのであって、「ファスト風土批判」というのは既得権益をもった老人たちが昔は良かったと懐かしんでいるのとは切り離して考えるべきなのだ。ただ、そういう懐古趣味とシンクロして世に広まったし、便乗して昔は良かった的なことを言う団塊オヤジたちの言い訳ツールとして活用されがちなのもまた事実ではあるけれど、それは読み手が文脈を読み違えただけ、自分に都合の良いところしか読んでいないという意味ではファスト風土を批判する側も、逆に支持する側もお互い様だ。
 
 
◆3.それでも僕たちは東京を目指すのか?
 最近、遠野物語を中心に東北地方にまつわる民俗学関係の本をいくつか読み返しているけれど、本当に当時の東北地方は凄まじい。なんかもう、「なんでそんな酷いところに住んでるの?」としか言いようがない。なぜ寒冷地でそばが名産なのかといえば、他に作物が育たなかったからだ。
 しかし「みんな東京に来ればいいじゃん」で済まないからこその開発とファスト風土化であって、地方に歪みが生じているのは「官」による開発が届かない部分を利益優先の「民」に手放しで任せてしまったことにもある。
 計画的に作った郊外ですら荒廃するのだから、無計画なファスト風土が荒廃するのは当たり前。郊外化の問題は作りっぱなしでメンテナンスする人がいない、あるいは軌道修正する術がなかったというのが最大の問題だと思う。計画都市の「計画」部分には必ず間違いや失敗がある。それに気づいた時点で修正できなければ、その過ちは時を経るごとに大きくなる。
 
 実は僕の関わっている戸越銀座や大崎が今直面している問題というのは大した問題ではないと思っている。商店街がさびれ、シャッター通り化しつつあるのは事実だが、それに対抗してあらがっている。城南出身のBボーイたちは地元が好きだから、基本的に地元にとどまるし他の街に行っても帰ってくる。結婚して子供を産むなら、この街がいいと思っている子たちは多い。だから新しい世代が街に居つくし、自分の住んでいる土地について関心を持ち続けている。
 身も蓋もない話だが「住みたくなるような街が、いい街」という、これにつきる。あと最近では、「自分で勝手に住みたいところに住めばいいじゃん」という発想は若さゆえの傲慢だったなあと思いはじめている。自分はしがらみもなく、若くて健康だったから「移動の自由」を持ち合わせていた。やはり年を取って金がなかったら身動きできなくなるっていうのは、定年を迎えた両親を見いてつくづく思う。自分の力ではどうにもならない。
 店というのは立地で9割がた決まると言われていて、そういう意味では戸越銀座は恵まれている。駅は近いし住宅地はすぐ裏側にある。大崎だってかつては工場の街として発展し、今はオフィス街に変貌しつつある。地域性によって成長しつづけた街だから、まだ方向転換も建て直しもきく。
 
 だからこそ、問題なのは最初から何も持ち合わせていなかった地域なのだ。鉄道の開発から見すてられ、ただ道路が整備されただけの土地。大手チェーン店すら出店をためらうような土地。地場産業もなく観光資源もなく、住民が自分の住んでいる地域を嫌っている場合すらある。何かを変えようとか、何かをはじめようという意欲も芽生えようのないような場所。「街づくり」みたいなスローガンを掲げてがんばれているところはまだ「余力」があるってことなんだと思う。

ケータイ小説研究3

「みなさんはあまり小説を読まないでしょう? 漫画が多いと思う。惜しいのは、会話や感情の羅列がだーっと書いてあって、風景や情景、人物の描写がほとんどないところ。若い人たちがどういう目でこの世界を見ているのか、それが読みたい」
 
■“第1回日本ケータイ小説大賞”の表彰式が開催――“横書きの文学”が生まれるとき
http://ascii24.com/news/i/topi/article/2006/11/28/666144-000.html

 
 この室井佑月のコメント、ラジオで聴いた時はもうちょっと長くて、いまの若い女の子がどんな風に肌で風を感じたり、草の匂いをかいだりしているのか、そういう細かい描写が読みたいみたいなことを言っていた気がする。でもそれって逆で、そういう「特定の個人・限定された個人」が体験した特別な感触ではなく、日常生活や学園生活に根づいた物語や、「もし自分がその立場だったら…」と想像できる余地のあるユルさがケータイ小説の妙味であって、「語られていない」からこそ、彼女たちは自分自身を主人公に投影できるんじゃないかと思う。
地域やシチュエーションを限定する風景描写や、キャラ立ちというのはあまり必要なくてむしろ邪魔なんじゃないかと。
 
 地方にいくたび、「ああ、こーゆーところで暮らしてる少年少女たちの物語こそ必要なんじゃないか」と思う。それを実現してるのがケータイ小説なのかも知れない。
 ビートルズとか学生運動とかファミコンとか、同時代性の高いブームが無い時代だからこそ、結局みんなの共通体験て中学・高校の≪学生生活≫くらいしか見あたらない。ちょっとでもその先に行くと就職したり大学行ったり専門学校いったり、急に細分化されてしまう。そういう意味では、ケータイ小説で最もウケるのが学園恋愛モノであるというのもうなづける。
 
 はじめは一画面に表示される文字数の少なさにイライラしたが、馴れてくるとそれが射幸心に近い快楽を生みはじめる。昔パソコン通信時代、ピーガガーという電子音を聞きながら回線が繋がる瞬間に期待を込めて祈っていたのと似たような感じだ。
 文字数にイラだちを覚えるのも、通信中はバッテリーの減りが早いしパケ代が気になるから「画面保存」して後で読もうという文系男子の貧乏くささからくるものであって、ケータイ小説の醍醐味ってあの次のページをダウンロードするまでの「溜め」にあるんだとわかってきた。ドキドキ、ワクワク、ハラハラする感じ。一見するとボタンを押して次の文章を表示するという動作は能動的で読者に委ねられている感じだけど、実は読者が読む速度を書き手が制御できるということなので、より「洗脳力」のある文章が書けるんじゃないかという気がする。一種の「催眠効果」がある。
 
 渡辺浩弐が「なぜ無料で読めるものを、わざわざ本で買うのか」その辺を考察しないと、ケータイ小説と聞いて溜め息つくようなオトナには何も理解できないだろうみたいなことを言っていた。その通りだと思う。
 ケータイ小説作家の掲示板を見る限りでは、ファンになった子が記念品的に買ってるらしい。むしろデジタルデータってカタチにならないものだからこそ、感動をカタチで残したいという感じか。いわゆる観光地で買ってくる自分用のお土産とか、映画のパンフレットに近いんじゃないかと思う。
 自分の感動したシーンのページをブックマークして読み返したりもしているらしい。ケータイ小説ならではの消費の仕方だ。
 

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てきとうにケータイ小説をレビューしてみた。

■赤い糸
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?i=namida7412&BookId=1
現段階でランキングトップ。書籍化されたものの中だと「空恋」とかよりこっちの方がきちんとケータイ小説ならではの技法に優れていて、単純におもしろい。女の子の恋愛における切ない心理描写がえんえんと続く。甘エロじゃないし、文章力もきちんとあるので、「ケータイ小説=エロ小説」とは限らないんだなと思わせる。正統派ジュヴナイル。主婦らしいけど、なんか地方在住少女の暮らす日常描写に優れていて、なおかつヤンキーやギャルにまでなりきれない普通の女の子ってところが共感を生んでいそう(周囲はおもいきりヤンキー文化ってところも込みで…)。

■幼なじみ
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?i=___Osanamajimi&BookId=1
「…言っとくけど,俺エロいから。覚悟しとけよ?」っていう惹句にブッ飛んだ。まだ全部読んでないんだけど、前半はそこまで過激じゃない。ただ、煽りはうまい。

■わがままなご主人様
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?i=sakurairo77&BookId=3
男性の萌えシチュエーションを逆視点から描いたもの。女子高生がいきなりドSの同級生宅でメイドさせられる話。いきなりキスされたりという甘エロ満載。

■・恋愛約束・
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=drop_honey&BookId=1
甘エロのお手本みたいな感じ。性欲剥き出しの男子ってどこまで女子に需要あるんだろう。「ミントティーン」とか「パステティーン」だと凄いんだけど、これは一種のファンタジーな気もする。自分に対する性欲が暴力に向かわないって、現実社会ではなかなかあり得ないと思うので。

■第1弾−呪い遊び−
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=ura_saorichan_0317&BookId=1
唯一ランキング入りを果たしている恋愛以外のジャンル。ゲーム性の高いホラー。

■言霊
http://ip.tosp.co.jp/bk/TosBk100.asp?I=con13&BookId=3
オチはアレだけど、表現技法として面白い。ケータイ小説ならではのホラー。この子はホラーのなんたるか、オカルトのなんたるかを皮膚感覚で理解している。
ホラーこそケータイ小説にぴったりのジャンルだと思うので、開拓しがいがありそうだけど、需要は完全に恋愛方面なので、どうなんだろう。

■歪んだ村と狂った旅人。
http://ip.tosp.co.jp/bk/TosBk100.asp?I=katakoinotuk&BookId=1
読んだ中では一番愛着がある。メルヘン・童話のジャンルになってるけど、気持ち悪さが秀逸。14歳の女の子らしいけど、たしかに文体は中学生らしい。

ケータイ小説研究2

人気のあるケータイ小説に共通するのは、
普通にみんなが経験することを題材にしているということ。
クラス替え・修学旅行・ファミレス呼び出し・三角関係
宮台真司が地方のテレクラの方がゲットしやすいとか昔言ってたけど、
「恋愛以外にやることがない・娯楽がない」という地方文化が背景にある。
 
そうなると必然的に黄金パターンは決まってくる
 
●主人公は女子中高生。
●舞台は学校。
●主要人物は幼なじみ・同級生。
●そこで繰り広げられる縦横無尽のただれた恋愛関係。
●でも心は純粋。
 
ケータイ小説は、
自分や自分の周囲をとりまく日常に投影して楽しむものなので、
登場人物に強烈な個性は必要ない。
そこで求められるのは、テレビドラマの人物相関図だけを抜き出したような物語。
 
もしもSFやファンタジーをやるなら、「共同体まるごと異次元へ」というパターンになる。これはもちろん元祖はジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」で、あとは「不思議の島のフローネ」の原作になった「家族ロビンソン」。「時の旅人」の原作である眉村卓の「とらえられたスクールバス」。自衛隊が部隊ごとタイムスリップする「戦国自衛隊」もある意味変化球として入るかもしれない。角川映画の強さの秘密はこの辺にありそう。あとは「漂流教室」とかクラスがまるごと地球防衛軍である「ダイテイオー」あたりもはいるか。で、トドメは「バトルロワイヤル」。
 
重要なのは、「もし自分だったら…」という「if」の部分。
この辺りになるとヤンキーセンスじゃなくて、中二センスというか、中学生が書く小説のプロットみたいな感じになってくる。
 
自分はクラスに友達もいなければ、幼なじみなんてもちろんいなかったので、「学生時代が懐かしい」というのはちょっと理解しがたいのだが、一般の人々にとって学生生活のノスタルジアが計り知れないというのはアタマではわかる。
 
あと、オタクがコンテンツを消費する時というのは、「空虚」な日常を埋め合わせるためだったりするけれど、彼女たちにとってはケータイ小説というのが日常のほんのちょっとした「空白」を埋める程度なんだろうというのは予想がつく。だから逆に言えば短く簡潔でなければならないし、消費サイクルも一定で需要は尽きない。
 
まあこれは初期のラノベと一緒かも知れない。
あかほりさとるや「スレイヤーズ」は「空白」を埋めるためのものだったけど、セカイ系は明らかに「空虚」を埋めるもの。
 
最近知ったのだが、「ヤンギャル文化」と呼ばれるものがあるらしい。
それを理解するためには、ケータイ小説というのは絶好のサンプルであるし、
日常的なスクールライフを彩るカミオジャパンの「おてがみメモ」あたりも参考になりそうな気がする。
http://www.kamiojapan.jp/kids_c.html
「ラブ友」あたりのセンスというのは、甘エロと共に不変なはず。